移住を決めるきっかけの一つとなった出来事は遠くインドで起こった。
今日の写真 割とらくに食べられる、Box Hillのカレーラクサ「俺は部長に梯子はずされたんだよ、君が助けてくれないで誰が助けてくれるんだよ。俺は君の直属の上司だぞ。」インドのデカン高原にあるバンガロールのアショカホテル中庭のビアガーデンでH課長が私に向かって叫んだ。バンガロールは今、世界的にも注目を集めているインドのシリコンバリーと言われるほどITの街と化しているが、昔から高原で気候がよく水もきれいで更には高度の技術を擁する技術者がインド中から集まる工業都市であった。1983年、私にとっては2度目のインド出張であった。H課長は、私が当時勤めていた会社の海外営業課長。インドとの技術提携の話で3週間ほどインド側と厳しいネゴを重ねていた。私が、このプロジェクトの東京本社の担当でH課長は私の直属の課長だった。だが、この時私はこのプロジェクトと全く関係なく、姉妹会社の社長のカバン持ちでバンガロール入りしたのだった。ホテルの中庭は3月の夜で快い風が吹いていたが、私はH課長にガーンと殴られたような衝撃を受けた。「こんな時にチャラチャラかばん持ちなんかで来やがって。」そう言ってH課長は席を立ってどこかに行ってしまった。目の前のビールには全く手がつけられていなかった。「実はね、H課長最近ノイローゼ気味でホテルの部屋でも本当に心配で一人にしておけないんです。」赤いターバンを巻いたシンさんが、流暢な日本語のダミ声で青い顔をして話してくれた。当時、大商社の常務が会社は永遠ですと言って汚職の責任をとって自殺した事件がまだ記憶に新しかった。私とH課長はもう4年も一緒にインドの仕事をしていてインドチームの核をなしていた。でも、課長がインドにいるときは私は部長の言うことを直接聞く立場にあって部長に逆らえない。きついテレックスを打てと言われればそうせざるを得ない。H課長が、インド側に,ある意味では勝手に提出した価格や条件を部長がサポートしなかったのだ。H課長はインドで完全に孤立してしまっていた。私は、何だか急に体全体の力が抜けて不覚にも泣いてしまった。周りにいた日本人の技術者もそしてインド人のスタッフも心配してくれた。姉妹会社の社長のお供はタイからインドへと続いており、その気負いや疲れもありそれが一気に崩れたのだろうか。何十億円にもなる商談の重みを抱えたH課長の切羽詰った心境を、十分には理解しきれず何もできなかった自分がやるせなかった。だが、それよりももっと強く感じてしまったのは、たかが仕事でどうして、生きるの死ぬのというところまで自分達を追い込んでしまわなければならないのか、ということの方だった。最終的には、この商談はうまくいきH課長も元気になり東京で仕事を続けていた。恐らく、会社ではこんなことは日常茶飯事なのだろうし、課長も部長も何もなかったように又飲み歩いていてバカ言い合っている。だが、私の中ではこの時から、いつか私は会社を辞めるだろうなという考えが動き始めたようだ。どこか体の一箇所でサラリーマン生活に冷めてしまったのだろう。このバンガロールの一件から一年半後に、私は9年勤めた会社を退職した。退職金は、退職の理由が自己理由だったので実に34万円。それこそ泣きたいくらいだった。私はこの時、これからの将来は自分で決めてやっていこうと決心した。そして、オーストラリアで日本語学校を開くという夢を持って、あまりに早すぎる第二の人生をスタートした。32歳になったばかりだった。人気blogランキングへクリックよろしくお願いいたします。