タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々
カテゴリ未分類155
幼少年期27
タコ生徒・学生期87
タコ サラリーマン期68
移住模索期68
タコ社長の日常500
オランダ系の連れ合い85
問題提起466
忘れられない人々403
日々雑感108
タコ社長出版関連9
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数年前の帰国の時、隣のクリスさんと、オランダ系の連れ合いの父親の二人で、我が家の柵を作りなおしてくれていたとことがある。可なりの重労働だ。私は、大工仕事やこういう土木工事が苦手だ。ほかにも苦手なものは五万とあるが。実は、今回も排水関係の重労働をクリスさんがやってくれたと連れ合いからの連絡が入った。もっと頻繁に日本に来ようかな、などと思ったわけではないが、嬉しいかぎりだ。クリスさんはリタイヤした62歳の方がが、腕力がすごい。オージーの男性は、否、女性も腕力がものすごい。「キャシーがいなかったので、クリスと二人で近くの新しいインド料理屋に行って食べてきたわ。美味しかったわ。」奥さんのキャシーさんが家を空けていたので、連れ合いは力仕事の感謝を込めてクリスさんと二人で外食したとのこと。あまり、日本に長居をすると、家のいろいろな工事は進むだろうが、それ以外で支障をきたすようなことがあるかもしれない。早く帰ることにしよう。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年07月06日
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一時は、危ぶまれていた両親との温泉、突然父が行きたいと言い出したので実現。場所も部屋も、昨年の10月に来た所。富士レークホテル。ホテルに備え付けの車いす、初めて使用。楽だな、と父。ゆっくりできるよう願っている。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年07月02日
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昼は、土佐料理の店。ジョン万次郎が、やや意味不明。夜は、昭和30年代に戻ったようなお店。この蕎麦、あまりに美味しくて、思わず涙が出てしまった。どうあがいても、海外では味わえない雰囲気と味。あ~、これがニッポン。やや、キンチョー。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月30日
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死ぬほどオーストラリアチーズを食べる会(?)に行ってきた。勿論、赤ワインも遠慮がなかった。俳優の柴俊夫さんがチーズを切ってくれたのでツーショット。彼は、なかなかオーストラリアに造詣が深い。オーストラリアに惚れ込んでおられるようだ。しかし、ちとコレスレロールが心配で、赤ワインのポリフェノールの力に頼らざるを得なかった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月27日
朝の4時前に目が覚めた。隣の家の大きな拍手の音がそうさせた。サッカーのワールドカップ、ニッポン対デンマーク戦、大変な騒ぎだった。毎日、5時に起きてウォーキングしているが1時間早く起きてしまった感じだ。これで、負けたら腹も立つが大奮闘で勝利だったので良しとしよう。昨日は兄の運転で父を病院の検査に連れて行った。帰国すると、いつもそうしている。先生の丁寧な診察と、ホルモン注射も終わり病院の食堂で昼食となった。父はカツ丼が好きなのでそれにした。兄はカツ定食、そしてあくまで健康志向の私は山菜蕎麦。「美味しそうだな、蕎麦がいいな。」山菜蕎麦が、一番早くきて私の前に置くと、透かさず父がそう言った。自分で、カツ丼といっておきながら。ということで、私が昼からカツ丼を食べるハメになった。そう言えば、5,6年前に「今日のカツ丼」と称して、昼ごはんに毎日いろいろな所のカツ丼を食べていた時期があった。私の「大食い」がまだ健全であった頃の話だ。人の恋愛感情が無慈悲に変わってしまうように、人の食べ物の嗜好も変わる。そして、人自身も変わる。父は、目の前に出された食べ物には有無を言わさず即、手をつける。こんな人だったのだろうか、と思ってしまう。昨年、兄夫婦と箱根に行ったとき、晩御飯に出される品々を、あっという間に食べてしまう姿にやや呆れた。元警察官の厳格だった父も変わった。「まるで赤ん坊だな。」兄がそう言った。ずっと先になって思い浮かべる父の姿は、今の父になるのだろうか。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月26日
家の隣に美代ちゃんという娘がいる。生まれたときから知っている女の子、といっても私より一回りくらいしたの女性だが。素敵な女性で、外資系の会社に勤めているが、縁がなく独身。毎回、帰国の度に飲みたいね、といいながらなかなか実現しなかった。忙しい人でもある。でも、前回は妹の直美ちゃんと3人で飲む機会があった。「この前、オバサンに会ったら絶対に二人では飲みに行っちゃだめよ、って言われたのよ。どうしてかな。」美代ちゃんからメールがきた。母が、美代ちゃんにそういったそうだ。そこで、母に質してみた。「言ったわよ。男はね、隙があるとそういうことを考えるからね。お母さんは、そういうのが好きじゃないの。」もうすぐ還暦になる息子を信用していない。男はみんなそうだと思っているらしい。私は、おしめをしていた頃から知っている美代ちゃんにそんな気は絶対に起きないし、美代ちゃんじゃなくても心配ないよ、と言ったが暖簾に腕押し、豆腐にかすがい、糠に五寸釘。自分の自慢できない人生を振り返ってみて、いまだに親に心配かけることは納得、とは思ってはみたが、この年になってもまだ心配をかけている自分がやや不甲斐ない。そういうわけで、今回も美代ちゃん、直美ちゃんと3人で会うことになった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月24日
前回の帰国の際に、ニュージーランド人のキースから特別に頼まれて包丁を買った。雨の中、築地にしかないという店を探して購入。キースは今年の11月に50才になる。オランダ系の連れ合いと相談して、この購入包丁を誕生祝いにした。半年前の誕生祝いとなった。彼は、若い時からナイフに凝っていて、いろいろと集めている。砥石で研ぐのも彼の仕事だ。ロシア人の奥さんヤーナには、特別の包丁は触らせないという。ところでニュージーランド、サッカーのワールドカップに出ている。ラグビーのオオールブラックスは大変な人気だが、サッカーもすごい。あんな小さな国で大したもんだ。スポーツでも包丁でも、凝るととことんやるのかもしれない。来年のラグビーワールドカップにはキースと一緒にニュージーに行こうかという話が出ている。連れ合い次第だが。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月23日
メルボルンで「タコ社長」を知らない人は五万といるが、内田真弓さんを知らない人はモグリだ、と言えるほどの有名人。先日も、勝間和代さんとかいう日本で有名な人がメルボルンの内田さん宅を訪問されたとか。アボリジニーアートの伝道師、アボリジニーアートコーディネーター、いろいろ言われるが、その人となりそれだけで存在感のある友人だ。茨城出身の型にはまらないぶっ飛んだ性格で、抑え込もうとしても飛んで行ってしまう割れない風船のよう方。その内田さんが今、渋谷のギャラリー上原で展示会をされている。山形から来られている方もおられるくらいで賑やかだった。私は、アートというより、内田さんに会いにこのクソ暑い東京の梅雨空の中出かけた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月20日
絵が可愛かったからもあるが、思わず電車の中のポスターの写真を撮ってしまった。今回、日本の女性をそれとなく観察していて気が付いた点が二、三ある。一つには、特に若い女性の身長が伸びている点だ。背が高い女性がどんどん増えている。もっとも私の関わりの深いオランダなんかでは、190センチを超える女性がウジャウジャいるというので、これは世界的な傾向だろう。そして、もう一つは体の凹凸がしっかりしてきていることだ。但し、実際に調べる訳にはいかないが、上の方は人工的な措置の結果による点もあるだろう。しかし、下の方はそれも難しい。着物、正座の習慣から解放されて徐々に体型が変わってきていると言えるのだろうか。私の観察は、外面だけで内面観察は不十分なことが弱点ではある。電車の座席の幅はお尻の幅。オーストラリア標準ではなく、日本標準。しかし、日本もあと10年もすると座席改造が求められるかもしれない。こちらに来たばかりの頃、あるイタリア系のオージー男性からこんな表現を教えてもらった。英語にすると差しさわりがあるので日本語で書く。「彼女の脚は、マーガリン脚だ。」というもので、そのこころは? 簡単にスプレッドする、というものだった。このポスターの英語表現を見ながら、危うく駅を乗り越してしまいそうになった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
前回来日したとき、宅配で頼んだピザの量が少なかった、と父が食べた翌日に母に言いながら機嫌が悪かったと聞いたので、今回はラージサイズを2枚注文。お陰で、地獄のピザ喰いバトルとなってしまった。前立腺を病んでいる87歳の父、胃癌完治の84歳の母、そしてCTスキャン初体験だった58歳になりたてのタコ社長、合わせて229歳の食卓にバカでかいピザが鎮座して占領。当然、誰が一番食べるのか、食べないといけないのか食前に決まり切っているこの鮮やかさがいい。恐らく、私は都合1枚分は喰った。食べたというより喰ったといいたい。途中から苦しくなって、ピザの耳を残し始めると母が、「もったいないでしょう。」と注文を出す。耳を残さないと手が進まなくなるからといった苦肉の策なのに理解のない攻撃。戦前の方々は容赦がない。「あれ、お父さんには耳がないな。」最近よく不可解なこと口ずさむ父が、私の残している耳を見ながら言った。「何言ってんのよ、お父さんは自分で食べたんでしょう!」「あっ、そうか。」3人で大爆笑した。笑いながら無性に切なくなってきた。結局、どうしても食べられなかった三切れが残ったので、これは翌日両親にチンして食べるように言った。昔、大食いだった頃なら訳なく私も完食したのだろうが、体重78キロを目指している今は、もう胃の方から白旗が出る。因みに現在82キロ。いずれにしても、この夜は都合229歳の食卓とは思えないほど勢いのよい想い出に残る食事会となった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月17日
「ザッツノットフェアー」オランダ系の連れ合いが、そういいながらも涙を流して送り出してくれた。5月に日本に帰国したばかりで、また今回日本ということでの発言だったが、父の病のことで帰ることは連れ合いも十分分かってくれている。ありがたいことだ。いつものように早すぎるくらいの時間に飛行場へ。ラウンジに赤ワインで独りで乾杯してネットなど始めていい調子だった。「セキュリティーの問題が発生しました。重要な問題ではないようですが、全員飛行場外へ緊急避難してください。」とのアナウンスが。やれやれ、せっかくいい気持ちになったのにとんでもないことになった。一旦外へ出たのでまた、あの荷物検査を受けないとならない。大変な人の数。早く、戻れると思った。ところが、待てど暮らせど何の説明もなくただただ立って待っているだけ。二階に上がるエスカレーターは係員がストップしているので、一階のフロアーはまるで日本のラッシュ時の電車の中のようだ。皆、エスカレーターの前に集中。こんな騒ぎが2時間近く続いてぐったり。飛行機も遅れて、シドニーの通関。見ると200人くらいの日本人女子高生が行列。何だこれは。さい先の悪すぎる旅行のスタート。飛行機も遅れ、出国手続きも遅れぎりぎりで日本行き国際線へ。修学旅行客がいたため、いつもはそんなに混んでいないで寝られるのに超満席。いつも真ん中の4席の端を取る。隣の2席が空いていることが殆どだった。ところが、どういう訳かその2席が乗ったカンタスの乗務員と家族で、乗務員が気をまわして別な席に移動してくれた。あ~、良かった。「ミスタータコ、誠に申し訳ないのですが、子供二人の家族連れがいて一緒に座らせたいので移動してもらえませんか。」何だこの連続プレッシャーは。ということで、別な4席満席の所へ移動させられた。しかしこのお陰で、ビジネスクラスのヘッドホーン、化粧セット、そして高級赤ワインが降ってきたので良しとした。赤ワインがあればタコ社長、それほど文句もない。という経緯で東村山に到着。そして、いきなり地震。天気予報をみたら毎日雨、雨、雨。その筈だよ、もうすぐ梅雨入り。あ~。家に入って両親に挨拶。患っている父が、私の手をしっかり握って握手をしながら大粒の涙をながしてよく来てくれたな、と2回続けて言った。メルボルンも涙、東村山も涙のスタートとなった。着いたら、昼ごはんができていた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月13日
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胸部レントゲンを撮ったら影があるというので、CTスキャンを受けに行った。生まれて初めてのスキャンだった。後ろで紐を締めるだけの無防備な格好で臨む。「動きだしたら息を止めてくださいね。これは大事なことですからね。」技師の女性の方が念を押した。スキャンがクルクル回り始めたので、言われた通り息を止めた。ずっとずっと止めていた。苦しくなってきた。気持ちが悪くなったので止めた。まだ始まっていなかったのだ。何年いても、英語で苦労する。実際に始まったら、今度は男性の声の録音で指示がきた。これが、また聴きとり難い。冷や汗ものの検査も、何とか無事終わった。昔から病院は苦手だ。得意な人はあまりいないかもしれないが。CTスキャンの結果は問題ないということだった。あれだけ息を止めていた甲斐があった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月09日
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昨年一緒にパースワイナリツアーに参加した人たちの懇親会があった。酒豪揃いだ。1人1本以上は持ち込んでいて、ほぼなくなった。安心して飲める方々の会だった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年06月06日
日本からの方々と会食。定番、いつ食べても食欲がそそられるギリシャ料理。「私は、座高とウエストが97センチで同じ時期があったんです。」「えっ、それじゃドラえもんですね!!!」参加者全員が一斉に発した!皆さん、お若かった。私は、ドラえもんだったんだ、と悟る。但し、今は座高は変わらないが、ウエストは無理して87センチも履けるようになった。あくまで、無理して。86センチ以上をメタボ領域というらしい。もう少しの努力が。これが、なかなか厳しい。今年の目標になっているが。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年05月29日
「明男!なんだこのきゅうりの切り方は!!!」ヘッドシェフの新田さんが若い明男をどなった。他のレストランにいたという明男の包丁さばきは口だけでたいしたことなかった。新田さんはそれでも苦笑いしながら言う度量があった。1986年の初め頃、当時サウスヤラにあった日本食レストランで働いているときのことだった。私も、包丁など持った経験も少なくそのレストランのキッチンハンドとして働いていて、見よう見まねで結構使えるようになっていた。その時のお陰で、今でも家できゅうりなんかの早切りでオージーたちを煙に巻いている。「日本に行ったらこの包丁を買ってきてもらえないか。砥石も一緒にできたら。」NZ人の友人キースから頼まれた。大きなデパートにでも行けば買えるだろうとずっと放っておいた。ところが、そう簡単ではなかった。最初、ネットを開いたら京都の店の案内。ちょっと遠い。もう一つの店が東京築地にあることが分かった。ネットでも買えたようだが時間がなかったので築地に出向いた。その日に限って雨だった。店は本当に小さかったが、包丁が売るほどあって売っていた。主に板前さんなどプロ用の包丁らしいが個人にも売るという。頼まれた包丁をゲットした。さらしに巻いて帰ろうかと思った。(若い方はこの意味が分からないだろうな。)ということで、今回一番大事な頼まれ物も無事購入することができた。高級品だったので、キースに渡すまえにきゅうりなどで試し切りがしたくなるほどだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年05月20日
東京の東村山に引っ越しをしたのは、私が14歳の時だった。それから数年して、武蔵野線が開通した。西武池袋線の「秋津駅」と、この武蔵野線の「新秋津駅」はちょっと離れていてゆっくりと歩いたら5分くらいかかってしまう。それで、通勤ラッシュの時などはお互いの駅めがけて乗り換え客が走る。走らなくても、速足で歩く集団がそれぞれの駅に大挙して移動する光景は一種異様に見える。「クソジジイが」先日、昼の混雑していないときに反対方向のから急いで来る40歳がらみの小柄な女性とすれ違いざまにぶつかりそうになった。そのとき、この一見田舎風の女性がそう発して走って去っていった。私は、一瞬その場の状況が把握できなかった。この女性が、私とすれ違う前に出会った人のことを言っているんだろうと咄嗟に思ってその場を通り過ぎた。しかし、どう考えてもそれは私に対して言われた言葉と分かった。私は今でも身長が185センチもある大柄な男で、概して人はこういう男に因縁はつけない。そういう人生を歩んできている。そんな私に、上背が半分くらいしかないように見える女性がそう言ったのだ。しかも、「クソ」プラス「ジジイ」だった。もう私は「ジジイ」と呼ばれてもなんの違和感もない年代なんだ、とあらためて感動した。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年05月16日
何が嫌だって、早朝ウォーキングでタバコを吸っている人の後ろをずっと歩かないとならないことくらい嫌なものはないが、ここは日本だから避けようがない。喫煙しながらの犬の散歩が勢いづいている国だ。毎日のウォーキングで挨拶している所沢商店街のリンリンクラブの方々の他に今回はもう一つ増えた。医療関係生徒募集の学校ポスターだ。この写真をみて、なんだかナース喫茶とかナースキャバレーとか、学校ではなく他の場所をを想像してしまう。写真の力はすごいものだ。こんなことを想像するのは私だけだろうか? 私だけだろうなあ。残りの日々のウォーキングも挨拶を欠かさずにやっていく。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年05月12日
日本に来ると俄然人気がでる。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年05月07日
ゴールデンウィーク、非常に素晴らしい天気が続いている。退院してきた父と母に仮設縁側をプレゼント。早速、頂いたカステラでお茶する。父も、少し歩いたりして元気な様子。「お前がいるから安心して寝られるよ。」母が言う。私は、いるだけでほとんど何もしないが。カステラが美味しかった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年05月03日
昨日、無事東村山入りした。半年ぶりの所沢商店街早朝ウォーキング。健康に元気で社会奉仕をしている彼女たちへまずは笑顔でご挨拶。昨日、最初のショッピングは父の紙おむつ。あまりに種類があって、私もちょっと試してみたくなったが試着室がなかったので遠慮した。メルボルンと気候があまり変わらないのでスムースにリセット可。メルボルンでは「唯のタコ社長」だが、東村山に戻ると「唯の60近い息子」。掃除、選択、ママチャリでの買い物などが日常となる。頑固な父の文句連発も勢いがよく安心した。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月27日
週末はギリシャ人街のオークレイでいつもの買い物、そしてラテ。目立つバイクがあったので思わずショット。「貴方がたを撮ったんじゃないんですよ。」と言って上げたっくなるような隣の席の方々。「家族で不倫」とかの写真を撮ってしまったのだろうか。いずれにしても気を付けないとならない時代になった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年04月01日
学生時代、北海道へ行って「乳搾り」か「コンブ取り」のバイトをしようかと思ったことがあった。両方とも可なり過酷であると聞いていた。結局、やらなかったが。ケアンズの近くで、3カ月バナナの農園でバイトをしていた青年が帰ってきた。50キロくらいのバナナの房を担ぐのだそうだ。8時間労働で、ものすごくきつかったらしい。しかし、その内慣れてきたという。「バナナは食べ放題だったんですか?」「嫌、まだ青いバナナですから。」最近、体力に限界を感じ始めている。できるのは、精々ガッツポーズくらいだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年03月26日
オランダ系の連れ合いの英語の生徒が結婚式をあげた。カトリックの教会で、式はほどんとスペイン語で執り行われた。コロンビアからご家族がこられ、大きな聖堂のなかで23人の小さな結婚式となった。でもラテン系の方々で陽気に楽しい式となった。私も恐らく最年長で、ゆとりのある参加となった。「お子さんの結婚式ですか。」式の始まる前に、知らない方から訊かれた。訊かれてもおかしくない年だがちょっと可笑しかった。最後に、独身者の女性に後ろ向きで花を投げた。取った人が次にいいことがあると言われている。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年03月21日
「タコさん、人間は一生の間にクモを平均8匹食べるんですよ。知っていましたか。」食べるんですよって言われても困る。だいたい寝ている間で、見なくて済むからいい、なんていう次元でもない。それから、おちおち口開けて寝られなくなってしまった。虫も殺しそうにない東北スタッフりっちゃんが言うので真実味がある。じゃ、アブラムシとかはどうなんだ、なんて考えたらそれこそ寝られなくなる。だから、昼寝はいいという結論にはならないだろうが。私は、クモとかアブラムシとかは、別に恨みがある訳ではないが得意じゃない。因みに、食べてしまうクモは、小さなものなのだろうとは思うが。いくらなんでも顔を覆ってしまうような大きさだったら目も覚めるというもの。食べられない物で嫌なもの、沢山あるが、冬に泊まった安ホテルのシャワーのビニールのカーテン。狭くて、体に冷たくまつわりついてくる。私の体がデカイのが悪のだろうが、時代とともに風呂場も大きくして欲しいと思ったりする。しかし、もっといやなのは、ガラスじゃないので、カーテンの向こう側が見えないこと。そう、あのアンソニー・パーキンスの「サイコ」の世界。いろいろ、怖いことを思い出していたら目が覚めてきてしまった。今夜は寝られそうにない。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年03月17日
たまには自慢したいこともある。小学校の頃、音楽の時間が大好きで、歌をいつも褒められていた。将来はウィーン少年合唱団か、などと思ったことは一度もないが、練馬区の子供合唱団ぐらいは夢見た。しかし、この自慢話も小学校で終わってしまった。中学に入ると別な意味で音楽が好きになった。はち切れんばかりの白いブラウスを着た小林先生の授業を最前列で受けることに興味を持った。正統派からは大きく外れた。ふとしたことで、日本のバイオリニストの演奏をYou Tubeで聴いて以来、とんでもなく嵌ってしまっている。今までの人生でまったくといっていいほど使っていなかった右脳が、幾分喜んでいるようにさえ感じる。http://www.youtube.com/watch?v=v31HBl2wzNc川井郁子さん、可なり有名な方だった。大学教授ということでもあり、もし、授業を受けられのであれば、小林先生のときと同じように最前列に座りたい。http://www.youtube.com/watch?v=h--3aKqkG9kこの曲は、画像にも魅入ってしまって、赤ワインがなくても酔ってしまいそうだ。ネットの時代、思わぬことに出会うものだ。カラオケに行きたくなってきた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年03月11日
「お母さん、駄目だねこの本、エッチばっかりで。」読書好きの母が買って来いというので、所沢西武の8階の本屋で買ってきた「愛の流刑地」、読まないというのでメルボルンに持ち込み、私の会社の図書館に入れてある。今日、友人のHさん、オーストラリア人の奥さんと一緒に見て「失楽園」よりずっと良かったと、この本が映画化されたDVDを会社に持って来た。家に帰って早速見てみてしまった。ちょっと、見ていたオランダ系の連れ合いが、これは日本のポルノかと言っていたが、面倒なので適当に答えた。作家と、平凡な読者の絡み。ミスキャストの俳優も何人かいたが、それなりに楽しめた。あまり細かいことを書くのは憚れるが。ただ、これ確かに本で読むと80歳を超えた母には刺激が強すぎるように感じた。余生は静かに過ごしてもらいたい。全く他意はないのだが、タコ社長も本を出している。もっとも、私の本の場合は売れていないのでファンです、なんていう方との出会いは全く心配しないのでよく安心していられるが。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年03月02日
週末、シドニーのオペラハウスで5000人の男女が素っ裸になったという。銭湯とかの寄り合いの話合いとかじゃないようだ。世界的に、大勢の人を裸にして写真を撮っている方がいるとう。参加者は皆、ボランティアだとか。私が勝手にメルボルンの朝日新聞といっているThe Age紙に写真が出ていた。「もしこういうことがあったらやってみる?」オランダ系の連れ合いに聞いたら、YESだった。私は、いろんな意味で自信がないのでできないと思う。ただ、洋服当番とかのボランティアで傍観者としてならいつでもYESだが。しかし、その場にいたら温泉気分になれるのだろうか。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
メルボルン動物園で、象の赤ちゃん誕生。既に150キロの堂々たる発育。名前がマーリ(MARI)と決まる。早速、撮影。子どものとき、上野動物園で象を見て泣いていたという。昔から、どうも大柄な方が怖い。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月25日
今日の午後、突然街中のメイン道路が封鎖されロックミュージックのトラックを先頭に大変な数の人のデモがあった。子供のときから、お祭りとかが大好きな私だが、思わずデモに紛れて一緒に行進してしまった。ビクトリア州のパブで生演奏をしている所には、必ず最低二人のガードマンを付けないとならないという法案に反対するデモだ。人を雇うことでパブの経営が脅かされるし、客も高い酒代になって行けなくなってしまうということらしい。考えてみたら、平和な国だ。業者には死活問題かもしれないが、この国オーストラリアは、本当に最後の楽園なのかもしれないと思ってしまった。州議会議事堂の前でロックコンサートの日になった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月23日
小学校5年のときに、父が横が15センチ、縦が5センチくらいのトランジスターラジオを買ってきた。父は、それでNHKの浪花節とかを聴いていたようだが、実際には私が一番使っていたようだ。ビートルズが日本でもブレイクした頃で、よく洋物歌番組を聴いていた。中学になると深夜放送の全盛期を迎えようとしていたラジオ局がこぞって新しい番組をスタートさせた。愛川欣也の、「松葉でチョン ♪」なんていう語りが新鮮に聞こえた頃の話だ。「山田、きみも森繁のラジオ聴いていたのか。今度、公開放送があるんで申し込んだら当たったよ。一緒に行かないか。」中学2年のとき、私は文化放送で「こんばんは 森繁久弥です」と始まる番組を聴いていた。その公開放送に山田と行くことになった。悲しい経験を語り、それでも頑張っていこう、というのがこの番組の趣旨で、「友よ、明日泣け」という言葉がメインテーマだった。1967年2月10日にこの公開放送があった。私の半分くらいしか上背のない山田と二人で行ったのだが、あいにく当日は雪だった。長靴はいて、14歳の珍道中となった。会場に入ると、私たちが恐らく最年少だと思えるくらい大人の人たちで埋まっていた。少なくとも、小さい山田はそう見えた。私は、180センチあったが顔は可愛い童顔。自分でいってりゃ世話はないが。内容は殆ど覚えていないが、アメリカ軍の兵士と日本人の間に生まれた子供たち、といっても大人だが、そういう方たちが出てお話してくれた。一番印象に残っているのは、隣の3人組のオネエサン達を除くと、まだ青年だったマイク・真木が新曲の「バラが咲いた」を歌ってくれたことだ。私たちの客席の横を歩いて歌っていた。オネエサン達もうっとりしていた。いい歌だった。今も歌っている。本当の幸せにしみじみとむせび泣きたいのなら今日の不幸せには笑って耐えようではないか友よ、明日泣け !番組で、いつも森繁さんが力強く発信していた言葉が、この会でも大きく力強く伝わってきた。43年経って、隣のオネエサン達の顔はまったく覚えていないが、この言葉だけは今もしっかりと覚えている。森繁さんも昨年亡くなられたが、私の中では、あの会場で笑顔で励ますその姿のままだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月20日
1万2775人だという。今年のメルボルンマラソンの出場予定者の数とかの話ではない。ハリウッドの映画俳優ウォーレン・ベイティが床を伴ににした女性の数だという。あまりに天文学的数字で、何とコメントしたらいいのか言葉もない。しかし、こんな数の女性を覚えているのだろうか。前に日本の有名なドラマ作家が、付き合ってきた半端じゃない数の女性のことを事細かに記録していて奥さんに見られ大変なことになったことがったが。いずれにしても、百科事典くらいの厚さになったりしそうだ。半身浴をしながらこの記事が書かれている週刊誌を読んでいて、上気に弾みがついてしまった。実は、これは最近出版された彼の伝記の中での想像の数ということが分かった。50代前半でアネット・ベニングと結婚するまでの間に、毎日違う人と、という前提だとか。これは、ウォーレンにやや酷じゃないだろうか。別に、同情する必要はどこにもないが。ところがこのハリウッド1のプレーボーイ、アネットと結婚してから18年間、浮いた話が一つとしてないという。子供もできて幸せな家庭を築いているらしい。現在、72歳。フェイ・ダナウェイとの共演「俺たちに明日はない」。この時の印象は可なり強いものがある。ジーン・ハックマンもよかった。私の個人的洋画名作の一つになっている。因みに、「ドクトルジバゴ」「ディアハンター」「追憶」「ゴッドファーザー」「マンハッタン」などが上位を占めている。結婚して落ち着いてしばらくしているから、こんな大胆な伝記が出版されたのだろう。自叙伝が出るなら、その時の数値との比較が待たれるところだ。まったく他意はないが、タコ社長もオランダ系の連れ合いと連れ添って18年になる。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月17日
「チンタレラリルナー お屋根のてっぺんで ♪」又従姉弟の恵子ちゃんが、四畳半の窓にもたれかかって夜空に向かって歌ってくれた。私が小学校1,2年の頃の話で、恵子ちゃんは女子高生だったのだろうか。鼻筋が通っていて目が切れ長で本当に可愛い人だった。歌ってくれたのは、「月影のナポリ」というザ・ピーナッツの歌だったということを後で知った。月夜の夜に、歌ってくれた歌が今も耳に残っている。こんな恵子ちゃんに憧れてしまった。この曲は、わりとロマンチックな曲だったように覚えていたのだが、You Tube で聴いてみたらすごく明るい感じの歌だった。http://www.youtube.com/watch?v=RMKFXjsU2k4&feature=related本当にいい時代になったもんだ。ネットで簡単に昔の曲を聴き続けることができる。歌が、その頃の幼い心を蘇らせてくれる。老後の楽しみが増える。しかし、いろいろと勘違いもあることだろうから、そのまま封印しておいた方がいいこともある。それにしてもこの曲、「チンチンチンのお月さま ♪」というところが、妙に気になってしかたなかった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月14日
「サーカスの兄弟の1人に似てない?」サラリーマンのとき言われた。木下サーカスとかの話ではない。4人組みの歌のグループのことだった。確か、「ミスターサマータイム」でヒットした人たちだった。「タコ君って、ジョン・レノンに似てるね。」中学時代にはこんなことも言われたことがあった。髪で目が見えないくらいだったからだろうか。歌い手に縁があったのだろうか。「そういえば、浪越徳治郎さんに似ていますね。」今日お会いした日本の中年の女性に、私が指圧を勉強した話をしたときにそう言われた。ジョン・レノンも、長生きしていたらそう言われたのかもしれないと思ってみたりして、自分を納得させることにした。こうして生きてくると、いろいろなことを言われて飽きない。痛めている右手の親指が治ったら、また指圧でもしてみようか。シャネルの5番だけのマリリン・モンローに指圧した浪越さん。せめてそんなことだけは、あやかりたいものだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月11日
車で30分。セントキルダに行ってきた。暑いと、いろいろな事が自然に起きるようだ。でも、この方々非常に毛深く、だみ声だった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年02月07日
私の話ではない。3つ違いの兄のことだ。仕事をしながら、苦学して大学を出た。毎月、その中から必ず1,000円のお小遣いをくれた。4年間続いた。子供の時はいつも喧嘩ばかりしていたが、あるとき私の方が背が高くなってしまった。それからは喧嘩はなくなった。昨年の11月の帰国で、本当に久しぶりに二人で飲んだ。お互いに、いろいろ病んでいたりしたが、うまい酒だった。今、この兄の息子が、メルボルンの私の会社で働いてくれている。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年01月28日
共に還暦を過ぎた隣の家のクリスさんご夫妻。よく一緒に食べている。二人とも、可なり酒に強い。私たちも、酔っても這って帰れる隣、という環境が嬉しい。ラムの肉とクスクスの料理は、肉がインド風に味付けされていていけた。デザートは誰も必要ない年代だが完食した。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年01月24日
全豪オープンテニスが後半戦に入っている。こうみえても私も、二度テニスを真剣にやろうとしたことがあった。一度目は、サラリーマン時代付き合っていた女性に誘われて、毎週土曜日に明治生命の主催していたテニスコースに通った。ウエアーとか、ラケットとか一通り奮発して揃ろったな、と思った一ヶ月後に挫折。先行投資がそのまま沈んだ。二回目は、かれこれ15年くらい前だろうか、当時付き合っていていまもそうしているオランダ系の連れ合いに誘われて始めた。こちらは、やたらにテニスコートのある国、参加したテニスくコースも4,5人でかなりしっかりとやったが、気がついてみたら止めていた。着る物とかにまったくの拘りや見栄、高級志向とかがないこの国、先行投資は最小限でオランダ系の連れ合いも喜んでいた。こんなわけで、テニスからはまったく浸しただけの足を洗い、今は正直まったく興味がない。TVも見ないニュースも見ない。考えるに自分から自発的にやろう、としたことでさえ、厭きっぽい性格で長続きしない。ましてや、誘われてやったことだった。弾みがない。今年は、自らやりたいことをリストアップして挑戦してみたい。まだまったくの白紙であるが。因みに、何かに誘われると絶対に断らない性質、特に女性から、は今も健全のようではあるが。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
「イボ痔?」カウンター越しに体格のいい色黒の金城さんがそう言った。「イボ痔じゃないわよ、『異邦人』よ。今、池袋の文芸座でやってるのよ。」早苗は、私との会話を遮って金城さんにそう答えた。大学一年の5月の初め、喫茶店でバイトをしていたジーンズの良く似合う切れ長の目の早苗と付き合っていた。少なくとも、私はそう思っていた。「タコね、もうすぐ沖縄返還されるの。パスポートなしに沖縄に行けるのよ。本当に嬉しくなっちゃう。」金城さんは私が濃いコーヒーを飲んでいる席まで来て笑顔を見せた。1972年5月の事だった。今、練馬に住んでいる兄の家のTVの横にリロケーションの装置を置いて、メルボルンでリアルタイムに日本のTVを見ることができるようになっている。日本の連続ドラマなんかが見られる。しかし、こちらが夏時間のときは2時間早いでの夜更かしをしてしまうことになる。昨年、城山三郎作の「官僚たちの夏」を何回か見た。録画はできないので、見られない日が結構あった。先日、チャイニーズのDVD屋で2枚組を27ドルで売っていたので買って一気に見た。通産省の官僚たちがどれだけ体を張って国のためにやってきたか、という内容だった。それぞれが、国のため、と思っているが考え方は大きく違い衝突が絶えない。そんななか、沖縄返還の話が進む。この返還による沖縄県民の喜びが計り知れないものがあった。大学時代の金城さんの掛け値なしの笑顔が目に焼き付いている。しかし、その交換条件として密約があり日本の繊維産業が壊滅的な打撃を受けた。戦争に負けた代償はとてつもなく大きい。そして、それは今も厳然と続いている。金城さんとのこの会話の翌月の6月に、早苗は突然蒸発してしまって私の世界から消えた。それ以来、あの喫茶店には入ったことがない。その数年後には別の店になっていた。しかし、今でも毎回の帰国の際、必ずその前を通ることが年中行事のようになっている。昨年の11月、その路地を行こうとしたら、そこら一体すべてが取り壊された工事現場と化して大きなコンクリートの墓場となっていた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年01月22日
北アイルランドのロビンソン大臣の奥さん60歳が、19歳の男性と不倫したことが話題になっている。映画「卒業」の中で歌われたサイモンとガーファンクルの「ミセスロビンソン」の北アイルランドでのダウンロード販売が1200%伸びたという。それにしても40歳の違い、すごいものがある。世の中が還暦、および還暦に近い方々に何かのメッセージを送っているのだろうか、いなのだろうか。「井村君が言ってたわ、あの二人、ベンジャミンとエレーンは絶対に幸せにならないって。だって、あの最後のバスのシーン、彼の顔が笑ってないって。」大学時代に付き合っていて、後で私をずたずたにして去って行った好江がそう言った。極楽トンボのような私は、少なからず感心したのを覚えている。そこまでしっかりと見ないと映画を見たことにならない、ということだろうか。ところで、私は小学校3年生の頃から年増好き。あの映画、どうみてもミセスロビンソンの方に魅力を感じてしまっていた。どうも、キャサリン・ロスの演じるエレーンがイマイチだったことに拠るのかも知れない。当然、還暦近い私に、今でもこんな趣味があった日にゃ、老人ホームでボランティアでもしないと事が進まないだろうし、世界平和にも貢献できなくなる。世の中、良くしたもので時代と共に落ち着くところに落ち着いていく、ということだろう。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年01月19日
歩いて行ったら怒られそうな「TAXI」というレストランに歩いていった。義妹の誕生昼食会。人生は、人の誕生日をお祝するためにあるような日々が週末から続いている。日本食もあるというので、蕎麦とか注文したかったのだが。これでやっと終わった。2月までは誕生会はない。これは私の前菜。豚の角煮を甘くしたようだった。これは、何かのスープ。 ここまでは前菜これは私のメインコースうさぎだという500グラムの肉の塊 義父が完食した。和牛のステーキ毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
シンガポール最後の日は、やはりチャイナタウン。その中にあった、シンガポール歴史記念館に入ってみた。仕立てやに、よく日焼けしてだいぶ疲れている蝋人形が置いてあった。そろそろメルボルンに戻った方がいいようだ。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年01月09日
今回の旅行で、実は長年行きたいと思っていた所に是非行ってみようと思っていた。シンガポールからバスで1時間くらいの所に、マレーシアのジョホールバルという町がある。ここより更にバスで3時間北西に向かった所にあるバトパハという田舎町に行ってみたかった。20代の頃、詩人金子光晴の本に可なり影響を受けた。昭和の初めにアジアとヨーロッパを妻と一緒に7年間放浪した人だ。妻が恋焦がれる男から引き離すといった意味もあった旅でもあったようだ。バトパハは、そんな金子光晴が滞在した所だった。しかし、残念ながら今回は断念。ジョホールバル止まりとなってしまった。バトパハには、1人で時間を気にせず居たいだけ居る、といった環境でない限り行く意味はないと思った。そんな状態に自分を置いてみて、そこから何が見えるのか見てみたいと思った。そんな機会が、これからの人生で訪れてくれるかは分からない。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年01月05日
元旦は、インド人の街「リトルインディア」に行ってきた。インド人も初詣があるとのことで、大変な賑わいだった。まるでインドに旅をしたような一日になった。本年もよろしくお願いいたします。サリーの店が何十軒も続いていたいろいろなマーケット新年の花飾り暑いときに辛い料理、ここでは他にチョイスがない寺院で初詣靴を脱いで入る。ちゃんと探せるのだろうか毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2010年01月02日
昨夜、真夏のメルボルンから真夏のシンガポール入りした。蒸し暑さが違う。オランダ系の連れ合いの妹夫婦の家に、これからずっと泊まることになっている。年越しは、日本より1時間遅いこちらで迎える。携帯電話会社の重役の義弟、なんとも夢のような生活だ。妹夫婦と子供ないということで、のんびり使わせていただくことになっている。人が金持ちなのを褒めても仕方のないことだが、こんなことは滅多にないのでのんびりしたい。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2009年12月30日
実は、年がいもなくオージーの35歳男性とクリスマスの日に相撲を取って怪我をしてしまった。女性と取っておけばよかったなどという話ではない。相撲がオリンピックの種目になったら、明治の初めに廃止になった女相撲が復活するのだろうか。老後の楽しみが増える。10月の帰国の前には肉離れ、今回のシンガポールの前には右親指脱臼。楽しいことにブレーキをかける力が働いているようだ。何かに呪われているのだろうか。包丁も持てなければ、料理の箸も使えない。特に、親指で押すこととかき回すことができない。胸はかきむしられているが。それでも、2日続けて晩御飯を作った。切ったナスがつながっていた。独身だったら当然だろうな、なんて思いながら甘やかしのない環境で作りあげた。シンガポールの家にはフィリピンのメイドさんがいるとのことで料理はまったくする必要がない。ただ、私が今回作った太巻きが結構よかったと、こちらに一カ月滞在する妹が、メイドさんに電話をいれた。私が、メイドさんに太巻きの作り方を教えるハメになっている。上出来だった太巻きが今は恨めしい。42度のショットドリンク一気連続飲み。可なりきいて相撲が取りたくなった。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2009年12月28日
一泊の飲み食いバトルから帰還した。今、やや虚脱状態でポテトチップスを食べながら反芻している。5時に起きて1年に一回のタコ風太巻きを作るオランダ系連れ合いの特性チョコレートケーキ姪っ子たちと寿司の次に人気のあった連れ合いのミートローフ七面鳥前菜妹の家の裏庭で。17人参加。ポークなどのメインディッシュオーストラリのパブロバ(メレンゲ)ケーキ自家製クリスマスプディングということで、今年もやっとクリスマスが終わった。42度もあるきついショットドリンクを飲み、赤ワインは1本で抑えた。毎回、嫌でもこの緑の箱をクリックよろしくお願いいたします。
2009年12月26日
来年2月27日に、日本人会がメルボルンで盆踊りを企画しているという。サラリーマン時代、勤めていた会社の常務がオーストラリアの鉄鉱山会社の重役とすき焼き鍋を囲んだ後、酔いも手伝って皆で「炭坑節」を踊った。いつも苦虫を食いつぶしたようなカミソリ常務だったが、満面の笑みで踊っていた。ここまでするか、と思わなかった訳ではないが、相手も鉱山の方で結構楽しんでおられた。横須賀の三浦海岸の少し前に伯母の住む津久井浜海岸があり、夏にはいつも盆踊りがあった。今、この海岸は埋め立てなどで潮の流れが変わりまったくなくなってしまっている。私の数多くの思いでが濃い緑色の海に沈んでしまった。小学校2年のとき、伯母さんの旦那さん方の親戚で30歳そこそこの伊沙子さんたちと盆踊りに行った。手をつないで見ていたり踊ったりして、小さな心臓が痛いくらいに鳴った。淡い思いが芽生えた。中学1年の時、胸躍る再会を果たした時、別人のような体型になっておられて伊沙子さん。その体型よりも大きかった思いが一瞬にして弾けた。実家の東村山は、言わずと知れた盆踊りのメッカ。ただ、私は14歳から移り住んだので、遠くの祭囃子なんかで足を動かす程度で終わった。はたして、メルボルンの盆踊り大会、とんな具合になるのだろう。私は行けないと思うが、もし行ったら今は手をつなぐ人は決められている落ち着いた人生だ。オーストラリア風、盆踊り? 外で踊るのもいい。
2009年12月23日
2009年12月20日
久しぶりに朝から目が回る週末となった。2年ほどメルボルンにおられたご家族との別れを、得意のギリシャ人の町オークレイとおこなった。朝ごはんを食べていたがブランチもした。今日は、クリスマス前の最後の土曜とあり、いつもより人が多く、町中がギリシャ人でむせかえっていた。帰ってから庭の掃除。途中から隣のクリスさんが、前庭の枯れかかっている我が家の木を切ってくれるというので、手伝うことになる。クリスさんの家ならともかく、私たちの家の木までやってくれるというので、手伝わない訳にはいかない。昔から、木を切ることを難なくこなしてきたような62歳のクリスさん、ノコを引く手が休まない。私も途中からやったがこれが大変で息切れがすごい。庭に切った木が山となった。終わってからクリスさんにビールを出す。話が延々と続いて6時になり、その内奥さんもきて、クリスさんの家で夕食をとることになった。オランダ系の連れ合いを入れて四人の酒豪の会。なんせ、這っても帰るお隣だ。終わって帰って12時。日記を書かずに寝るのは、シャワーに入らずに寝るようなもので、どうも座りが悪いので書いている。本当にまれにみる親切な人々い囲まれてやっている。ちょっと言わせてもらえるなら、もう少し短時間に終わらないものかと贅沢にも思ってしまったりもする。明日も、友人宅でパーティーがある。あと10日だ、元気に乗り切りたい。
2009年12月19日
オランダ系の連れ合いの元生徒、ベトナム人のトランが遊びに来た。3人で近くのベトナム料理の店に行った。はにかみ屋でまったく会話が成り立たなかった数年前に比べて、本当に大人になった。19歳だという。ベトナム人街のスプリングベールにはよく行って買い物をしたりしている。ベトナム移民は、難民受け入れ後本当に多くなっている。そして、今は留学生も増えている。国の力がついてくると私費留学生が増える。お母さんは離婚して、新しいベトナム人の再婚相手とアメリカに住んでいるという。トランは再来年には、このお母さんを頼ってカリフォルニアに移り住むという。彼女には二人の姉があり、姉たちはメルボルンに残る。家族がバラバラになる。戦後は終わっていない。
2009年12月17日