タコ社長,オーストラリア・メルボルンのスローライフな日々
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幼少年期27
タコ生徒・学生期87
タコ サラリーマン期68
移住模索期68
タコ社長の日常500
オランダ系の連れ合い85
問題提起466
忘れられない人々403
日々雑感108
タコ社長出版関連9
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土曜日にオランダ系の同僚の家に呼ばれた。最近、呼ばれることが多い。呼ばれたら、呼ぶのが礼儀。今年は呼ぶことも多くなりそうだ。私たちには子がない。子がない友人と会うことが多くなる。そして、子がある友人もその子達が育って身動きが取れるようになってきている。来週は、大根の煮付け、鳥のから揚げ、しゃぶしゃぶで友人を呼ぶことになっている。カメラに向かって歯が出せるようになりたい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年05月17日
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月曜の夜から夕食に呼ばれた。奥さんはタイ人の料理人、ご主人はイタリア人でビザの店をやっている。どっちの料理になるのかな、と思っていたらイタリア料理だった。ホクホク土曜から会食が続いていて肉攻めにあっている奥さんのニンジンの細工の元気がいいこれはギリシャのデザートだった下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年05月12日
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「タコさんは、大手の材木屋みたいですね。キが多いを通り越してますね。」20代後半あたりに言われたことがある。なかなか旨いことをいうな、なんて感心したものだ。それほど、仕事以外のことに燃えていた時期だったのだろうか。「私、この人に会うために生まれたのだと想う人がいるの。」サラリーマン時代に惚れて付き合い始めた静岡出身の同期の女性がそういった。しかし、その人好きな人には婚約者がいるときいて、自分の気持ちの持って行き場を失って切なくハンカチを握りしめたものだった。私も彼女に見習った訳ではないが、人妻に叶わぬ恋をしたことがある。28歳のときだった。ところで、妻のある人のことをどうして人夫「ひとおっと」といわないのだろうか。人妻は差別用語に当たるのだろうか。考えてみると、人夫では書き言葉では「にんぷ」とかいう別の意味にとり違えられる可能性がある。いわゆる、人足だ。女性が、人足に恋をしたのと、妻のいる人に恋をしたのでは意味が異なるし、はたまたこの人足に妻がいたりしたら、もうのぼせてしまいそうになる。人夫を「ひとおっと」と言わずに、人足の意味の「にんぷ」と読んだら更に混乱に拍車がかかる。「私は、今、にんぷに恋をしている。」という言葉にであったら、人足なのか、人の夫なのか、はたまた妊娠している女性になのか、もう話の先が見えなくなってしまう。ということで、人妻と対をなす人夫という言葉はない方が混乱を来たさないでいいように思えるがどうだろうか。本題に入る前に、今日は息切れしてしまった。続きはまた日をあらためて。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
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「10キロも太っちゃったよ。2キロくらい落とさないと。」今年83歳になった東村山の母が電話でそういった。ちょうど2年前、胃癌の手術で入院したいたときには、47キロまで体重が落ちた。幸い、初期癌で今は完治して食欲があり太ったようだ。母は、私が小学生の頃は実は体重が70キロを超えて「肝っ玉かあさん」とか言われていたほどだった。「お前の兄貴がね、ちょっと早い母の日に来てね綺麗なブラウスを買ってくれたよ。でも着たら小さすぎてね、取り替えてきてくれたんだよ。二日続けて来てくれることになっちゃんたんだけどね。」電話口で嬉しそうな母の声が弾んだ。いつもは私の方から電話するのだが、今回は母からだった。「それが嬉しいから電話したの?」「うん。」ちょっと間があって母が言った。「あっ、俺からの母の日のプレゼントは10月になるからね。待っててね。」「そうかい?」何も送っていない私は、つい10月と口から出て言ってしまった。私の次回の帰国は、これでほぼ10月と決まったもようだ。ランキングに参加しています。下の箱をクリックお願いいたします
2009年05月06日
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2009年05月01日
メルボルンは、ギリシャ人を抜きにしては語れない。怒られる。アテネ、テサロニケの次にギリシャ人が多いのがメルボルンと言われている。日本からの友人との最後の晩御飯はグリークでしめた。食べる前に撮るべきだった赤ワインのダイエット効果に期待して。ランキングに参加しています。下の箱をクリックお願いいたします
2009年04月29日
オーストラリア料理といえばミートパイ下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月27日
「ウォシュレット、ないの?」現在、日本から訪問中のAさんが、我が家に到着早々言われた。日本人は今シャワートイレが常識化して、これがないことを理由に海外旅行を渋る人もあるという。しかし、そう言われてもタコ家にはシャワートイレはない。10年近く前に、模造品を会社で取り扱ったことがあったが、自分の家には入れなかった。オランダ系の連れ合いの両親が1台購入、現在は2台になっている。とはいっても、Aさんを1時間離れた連れ合いの両親宅にトイレのために連れていくことは叶わない。それにしても、日本のトイレも変わったものだ。子供の時は、東京は練馬の警察官住宅に住んでいた。バキュームカーができる前は、近所の保戸塚さんという大きな農家のおにいさんが大きめのリヤカーに、これまた大きな樽を6つ積んで汲んで歩いていた。キャベツ畑などの肥料に使用していた。ある風の強い日に、畑に肥料を撒いている保戸塚さんのおにいさんをじっと見ていた。おにいさんは、痩せ型で長身色黒、そして目がクリクリとしている。マジメな顔で一心に人糞を撒いている。可也前に撒いたところから乾いた新聞紙が春の風に舞う。遠めに見ているとそれが実に綺麗だった。匂ってもこない。日々の生活で、物の流れの循環が途切れずに静かに自然に回っていた。あの頃は、それが永遠に続くように思えていた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
オランダ系の連れ合いの同僚のロシア人の女性のお宅に呼ばれて行って来た。ご主人は、ニュージーランド人。料理は、奥さんの出身のウクライナ地方の料理とか。ボルシチスープでスタートした。美味しくなかったら残して、と言われたがなかなかよかった。魚をゼラチンで固めたもの。チーズをパスタでくるんで周りに置き、チキンを煮込んだもの。これは抜群だった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月22日
「お母さんも呆けたのかね。嫌になっちゃうね。」今年83歳になった母が、前回の帰国のときにそういう。「本屋は古本屋にしてるんだけどね、水上勉の『飢餓海峡』文庫の上下を買ってきたんだよね、この間。そうしたら、前に買ってあったのよ。バカだねお母さんも。」母は、本を読むのが好きだ。松本清張とか宮尾登美子なんかがいいようだ。「何ってたって『飢餓海峡』は面白いんだよ。」記憶がはっきりしないが随分前に私もTVドラマで見たと思う。でも原作は読んでなかった。それぞれ二冊ずつあったのワンセットもらって帰って読み始めた。何でも、新聞の1年の連載で書いていて1年経っても話が終わらす、途中で連載が終わってしまったという。なるほど、ちょっとくどいほどのペースが続く。でも不思議なもので読み始めたら早く最後まで読みたくなり読み終えた。1965年の映画は、三國連太郎、左幸子、伴淳三郎、そして高倉健が主演していて大ヒットしたらしい。このメンバーで面白くない筈はない。原作の冗長さを映画がカバーしてくれると思う。今度の帰国ではDVDを買って両親と見ことができたらと思う。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月20日
「手が荒れたというので、先日お父さんに頼んでニベアを送りました。体に気をつけて頑張ってください。」1985年、永住権を求めてサウスヤラの日本食レストランでキッチンハンドをしているとき、毎日の皿洗いで手がふやけてしまいその話をしたら、東京の実家から大量のニベアが届いた。全部使い切るには3年くらいかかりそうな量だった。先日話をさせていただいた方は、メルボルンのニベアのマネージャーをされているということだった。価格は安く、しかも製品がいいことを強調されていた。オランダ系の連れ合いがディスカウントケミストで早速大量に購入してきたので記念撮影となった。ニベアだけでは何だから、最近集中して飲んでいるマーガレットリバーの赤ワインも並べ紅白とした。これで肌荒れ対策は万全だが、胃の方は荒れそうだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月15日
4月6日の日記で力道山の記事に誤りがあるとご指摘をいただき訂正する。力道山は、実際には入院している。なぜか刺された後救急車が来たが乗るのを断り、自分の知っている山王病院に入院し、水分を取るなという病院の言いつけを無視し、食事もタバコもしたい放題で腹膜炎で亡くなったという。自分の体力に過信したことに拠ることは間違いないらしい。非常に多くの方々がタコ社長の日記を読んでくださっている。史実には十分気をつけて書いていきたい。何か間違いなどあったらぜひお伝えください。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月12日
「数字の8の字ってすごく神秘的ね。」彼女の言っている意味がよく分からなかった。紺のショートパンツにだらっとした横じまの紫がかったトップをつけ、頭にはバンダナで鉢巻をしている。ドイツからの旅行者ドナと話したのは、ケアンズから車で北に3時間ほど行った所にあるCape Tribulationという海岸沿いの町にある海辺のバーだった。ここはバックパッカーの宿泊施設に隣接されてい小さなバーで、壊れたドアを開けようとしていて戸惑っていたとき、バーのカウンターに座って飲んでいた彼女が親切に内側から開けてくれた。そうして自然に会話が始まった。1985年の7月のことだった。「私は小学校の教師をしていたの。でも、なんだかヒッピーみたいな生活に憧れて学校を辞めて旅行に出ることにしたの。一つのところに自分を閉じ込めておくことが嫌になったの。」ドイツ語の訛りの強い英語で、もともと問題のあった聞き取りなので、本当にそう言ったのかどうか、想像で理解しようと努めていた。20代後半だろうか、すらっとした髪を無造作に伸ばしている。丸顔で青い目が異様に大きかった。夜の10時になると店が閉まった。店の外に出てプールサイドで話を続けた。月明かりだけを頼りに相手の顔を確認するようにして話した。設定には全く文句もなく、これから何が起こるのか分からないような不思議な雰囲気がした。胸が高鳴った。「数字の8の字って、蛇が自分の尻尾を噛んでいるようね。そのまま食べていったらどうなるのかしら。すごく素敵な形だと思わない?」この人、酔っているのだろうか。本気なのだろうか。「じゃ、遅くなったらから私は寝るわ。話楽しかったわ。」それから私は、真っ暗な4人部屋のロッジにもどり、二段ベットにやっとのことで上り、荷物を置いているだけでまったくベットメイキングをしていなかったベットに小さくなって落ちないようにして、なんでいつもこうなんだと自分に半ば呆れながら寝ようと努めた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年04月07日
オランダ系の連れ合いの義弟の52歳の誕生日に行ってきた。20人くらいが集まった。バーベキューの肉も十分。久しぶりにハメを外した。下の箱をポチッとクリックお願いいたしますmayu0208さんのデジャブとのご指摘で探してみました。ありました。mayu0208さん、後姿でよく分かりましたね。バーベキューの背景と義弟の体型がやや変わっていますが。
2009年03月15日
ロシア人は男同士でキスをすることは前に書いた。両頬にそれぞれした後に唇にする。ロシア人だけじゃないと思うが代表として。オランダ人は男女で頬に3回、フランス人は4回ときく。余談だが、今飛ぶ鳥を落とす勢いの佐藤優さんの本によると、男同士で親しくなったり信頼関係のある人は最後の唇で舌を入れるという。こちらでは、知っている女性には握手はせずにハグをしながらキスになる。子どものときからそういう風に育ってきたら別だが、最初はなかなか慣れなかった。自然にできないのだ。でも、今は慣れすぎて逆に自制が必要なくらいだ。要するに、西洋の国では子どものときのスキンシップが一生続くといえるかもしれない。「えっ、タコはお母さんとハグしたりキスしたりしないの?」先日、こちらの人からそう聞かれて、どう答えたらいいのか戸惑った。こちらの物指しで測るとそういうことをしないのは愛情が足らないからだ、ということになる。秋田出身の東村山の母にキスでもした日にゃ、張り倒されることは間違いない。こんな西洋社会に20年以上身をおいていると、そういうスキンシップが当たり前になってきて、日本に1人で帰国していると妙に物足りなくなる。かといって、隣のオバサンにハグなんかしたらセクハラで警察に逮捕されてしまう。慣れというものは恐ろしいものだ。オランダ系のダッチつれあいはオーストラリアに残しているし、柱でも抱いている他ない。でも、以前はあまりスキンシップのなかった両親に対して、今は少し変わってきた。父とは握手、そして母とは握手と肩に手をかけたりしている。父とも母とも一生キスをすることはないだろうが、これが私にとっての精一杯のスキンシップだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月06日
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「タコ、子どもはいるのかい。」ブリスベンの出張を終えて空港にタクシーで向かったときに運転手のMがそう聞いた。名前を聞いたのだが忘れてしまった。覚えにくい名前だったこともある。彼は、インド人かと思ったらソマリア人だと大きな声で怒鳴るようにいう。名前を名乗ってタクシーを呼んだとき、着くなり「タコ?タコ?」と笑いながら大きな声できいた。面白い奴だなと思った。ソマリア人。今まで会ったり話したりしたことがあるだろうか。今、世界的に名が知れている国だ。海賊の国。そして、10年以上内戦が続いていて国内が大混乱している国。「移民してきて5年だ。家族はいない。内乱を避けてきている。ブリスベンは最高だ。」運転中に3度も携帯が鳴り、その都度ソマリア語で大声で話す。そして時々大きく笑う。スピーカーで手放しで話すが、ソマリア語なので何を言っているのかさっぱり分からない。こんな運転手は始めてだ。Mは、顔の形はオバマ型で割りと小柄だが、唇の上に大きな傷跡があって、英語の発音が鼻に抜けてしまい聞き取りにくい。もしかしたら、内戦での負傷かもしれない。「子どもがいないなら、どうだタコ、タイに行って子どもを作れば。」Mが言ったことが一瞬飲み込めなかった。子どもは粘土細工のようにして作る訳ではない。「子どもがいなければ、財産を引き継ぐ者がいないじゃないか。どうするんだ。だから、タイに行って若い女性と一緒になって子どもを作る。誰にも言わなくていい。黙ってするんだ。そうすれば、お前の名前も受け継ぐ子どもができるんだぞ。こちらの生活はそのまますればいい。」別れ際に車から荷物を下ろしながらMはもう一度言った。「タイに行って、子どもを作れ。」内乱で家族がバラバラになったり死に別れたり人が数え切れないほどいるソマリア。そんな国から来たMからの発言だった。冗談とも思えない重みがあった。まったく他意はないが、私は大学でタイ語を専攻している。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月03日
朝早く起きてブリスベン川のほとりをウォーキングした。まだ開けていないカフェの側に来たら急に涙が溢れ出てきて止まらなくなった。ちょうど5年前、日本からの留学生を扱う事業展開をこのブリスベンでも手がけるために1人で事務所セットアップに奔走していた。ショーツにTシャツ姿で汗をかきながらも街中を駆け巡っていた。そして、メルボルンに続いて第二店舗目をこの地にスタートさせた。オランダ系の連れ合いも何度かこの地を訪れている。2003年の11月、カフェで熱く事業展開の夢を語り合った。メルボルンも大好きだけど、ブリスベンの将来性にも賭けてみようという私の思いを彼女もしっかりと支えてくれていた。こうして、2004年4月に始めたブリスベン事務所は、残念ながら2007年7月に閉鎖することになり、事務所の賃貸契約が5年あったので、残りの契約期間を同業他社の方に使っていただいていた。それが、2月28日に切れるので私も最後の後始末に出張してきていた。いろいろな背景はあったが、経営者として事業の継続ができなかった責任は大きい。情熱をもって仕事をしてくれていたスタッフを裏切る結果となった。そのため、私も体を壊した。連れ合いと夢を語ったカフェをウォーキングした。いろいろあったが、今回は久しぶりにこの街を楽しもうと思っていたが、やはり抗しきれない感情が吹き出してしまった。「タコ社長、我々若い者が社長のお気持ちを受け継いでこのブリスベンを盛り上げるために頑張ります。」メルボルンに戻る日の午前中、飲食店で成功しているSさんの店を訪れた。Sさんは、歯切れのいい言葉でこう私に言った。そして、毎日飲んでいるというニンジンリンゴジュースを隣の店で買って私に出してくれた。そのジュースは、あまりに大きすぎて飲みきれず、手に持ちながらSさんと別れた。30メートルくらい歩いて角を曲がるとき振り返るとSさんはまだ立っていて、深々とお辞儀をして見送ってくれた。彼の笑顔が見えるようだった。私は、大きく手を振って別れを告げた。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年03月01日
コメント(10)
やっと日本人らしく見えてきたと思ったら帰国になる。明日は、掃除、100円ショップでの買い物、荷造りなどになる。金曜日は父の病院検査に一日付き添い、土曜日は帰国だ。2009年2月、東村山の母親語録二匹目のどぜうはいないとんびは鷹を生まない秋田生まれの83歳の母の言は、裏ヨミが必要なときとそうじゃないときがある。その読解が私の人生の課題。よく間違える。さあて、ストレートで裏ヨミのあまり必要のないオーストラリア社会にもうすぐ復帰だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年02月18日
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2009年02月14日
「おいタコ、ひどいんだぜ、杉並なんていっても知らなくてさ、東村山っていったら皆知ってるんだよ。」新入社員研修で広島に営業研修に行ったとき、一緒に行った東京は杉並出身のKが言った。1976年の6月のことだったが、志村けんさんのおかげで既に東村山市は全国的に有名になっていた。今回のタコ本出版にあたり、この東村山市の市長さんに直接メールを出して献本を申し出たところ、快く受けてくださった。ということで、タコ社長、市庁舎にママチャリ自家用車で乗りつけた。日本に来ると、自転車が私の足になる。「絶望だ!」サラリーマンを辞めて、東村山図書館で日本語教師になるべく勉強をしていたとき、突然そう叫んで自習室を飛び出して行った男がいた。大学受験生だったのだろうか。私は、自分の好きなことをしようと勉強しているときで、まったく悲壮感もなく楽しくやっているときだったので、この叫びが鋭く耳をつんざいた。「そうですか、あの図書館は当時のままで古くなってきているのですが、何しろ予算が大変で建て直したいのですが、、、。」面談いただいた渡部市長さんがそう言われた。東村山市は、大きな企業もなく産業なども限られていて税収等は大変らしいが、そういうものに大幅に頼ってきた市町村は、今回の大不況で大変なめに遭っているようで、この市の落ち込みは逆に小さいとのこと。これからいろいろと市の発展に貢献したいと熱く語られていた。私も、もう30年以上看板になっている志村けんさんの後塵を拝しやっていくことにする。帰途、イトーヨーカ堂の食品売り場で、アジの開き、シャケの切り身などを購入、100円ショップに顔を出すことも忘れなかった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
直前の手配であったが、高校同期が15人も集まってくれた。高校時代の同期で海外は、私と後二人はアフリカ。海外住人が帰国する度に集まってくれる嬉しい会だ。高校は男子校で女子が三分の一ということもあって、在学中から割りと行動が別々になることがおおかった。その流れをくんで、同期会もいつもきれいに男女が分かれて座る。私はどうもそういうのが苦手な方で、人生は短いのだからと女性だけの席に割り込んで座って大笑いした。どういうわけか、昔の話をよく覚えていて最近の話は、10分前のことでも忘れるタコ社長。がんがんと昔の話に花を咲かせた。今回、出版の話で高校同期以外にいろいろご無沙汰している方々にご連絡をさしあげたところ、2人の方がお亡くなりになっていることを知り、長年の無礼を悔いた。高校同期にも、会えるときにもっと会いたいと思った。因みに、高校2年のときに、私は生徒心得改正委員長を自らかって出てやって、高校にミニスカートを導入することに尽力し成功した。考えてみると、当時のことで褒められるのはこれくらいしかない。タコ社長の人生、どうも傍流に流さ勝ちなのは、このころからのことらしい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年02月10日
到着時の昼ごはんなんだか、1日が12時間くらいかと思える毎日で、ネットへのアクセスもままならない。朝のウォーキング開始、埼玉県所沢で恒例のキャバクラの看板に挨拶、お互いの無事を確認し合えた。何よりも、両親が元気でやっていてくれるのが嬉しい。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年02月03日
その男の人は、吐きながら祈る姿勢を続けていた。飛行機の真ん中の4席の端に私は座った。彼は反対側の端にいた。1月1か月分の雨量が1月31日の1日で降ったという。成田は大雨強風だった。パイロットはようやく3度目のトライで着陸できた。予定より40分くらい遅れていた。2回目の着陸トライが駄目だった直後、飛行機は急上昇した。わたしにもそれがよく分かった。ジェットコースターが上昇するときのようだった。43度のメルボルンを後にして、成田に着いた。途中の池袋で僅かしかないオーストラリアの口座のお金を、シティーバンクのATMで下ろそうとしたら、何度やっても拒否される。いつもこれでやっていたのにどうしたことだ。天が私の帰国を嫌がっているのだろうか。やっとのことで、東村山の秋津にある実家に到着、元気な両親と再会できた。母は、1昨年胃癌の手術をしたときから7キロ増えたという。訊くと、やっと入れ歯を入れて沢山食べられるようになったからだという。痩せたのは胃癌のせいではなく入れ歯のためだったらしい。父は、前立腺の病で女性ホルモンを注射しているのぽっちゃり感が出て、やはり太ったという。元気そうな二人をみて安心した。「ほらタコ、見てごらん。金の成る木っていうんだよこれ。ずっとあるんだけど花が咲いたのは初めてなんだ。お前が帰ってきたら、きっとうちにも金が沢山成るよ。」私は、帰ってくる早々、金の成る木とかの横に荷物をおいて眺めさせられることになった。何はともあれ、実家では歓迎されているようなので安心した。これから3週間、厄介になる。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年02月01日
「タコさんさ、悪いんだけどね黒のレースのパンティーとブラジャー買ってきてくれないかな。」吉祥寺のキャバレーの呼び込みをやっていたとかいう話ではない。1996年、私は日本語教師を辞め日本のTVなどの制作会社の現地コーディネーター会社で仕事をし始めた。仕事の響きはいいが、ようは制作会社の末端の何でも屋だ。車の運転から、撮影の許可取得、撮影現場の下見と決定、食事の手配からホテルの手配など全てだ。手配料はまとまったお金になるが、時間があってないようなもので、時給にしたらたいしたことはない。まさに体力勝負の仕事だった。ウイリアムスタウンという海辺の町でモデル撮影の仕事を請け負った。服を着ての撮影ということでモデル会社と契約して撮影に入った。「下着姿の撮影もやっちゃおや。」撮影の途中で、突然制作会社の川崎さんが言い出した。渋るモデルを説得してやることになった。そして、私が、下着を買う役目になったのだ。町を走り回ってやっと下着屋さんを見つけて入った。元相撲取りのような大きなアジア人が、息をハアハア言わせて黒い下着を探している。私は必死だったが、店の人は訝しがって私を見つめていた。それはそうだろう。やっとのことで、言われたサイズのものを買って撮影現場に戻った。私はもうすぐ45歳になる頃のことだった。何を言われても「はい、はい。」と、腰を低くして小回りのきく男芸者のような仕事がこの仕事だったが、まったくゼロからスタートするにはちょっと年を取りすぎていた。変な頑固さとか、わがままの鎧はなかなか崩れない。全く初めて会った、年もあまり違わないこの川崎さんという人に何度も何度も怒鳴られた。幼稚園の頃から、怒られたり怒鳴られたりすることに弱い。反応が、すぐ顔に出る。ポーカーフェイスができない。半年してこの仕事は辞めることになった。実は、この黒いレースの下着の一件には続きがあって、この撮影の後モデル会社の社長に呼び出しをくらい、下着撮影なんて契約違反だと怒鳴られた。そして、大仰な追加料金をふっかけられた。結局、この仕事中終始怒鳴られていたことになる。自分で買った透け透けの黒いレースの下着を身に着けたモデルが、目の前で海をバック私に目一杯微笑みながら横たわる。今は、健康によくないので、こんな楽しいことしか思い出さないようにしている。それにしても、なかなかだった。「その下着、私が買ったんですよ!」下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月25日
「豆腐屋のおにいちゃんったらね、ほんとうに失礼しちゃうわ。前の家の今井さんの奥さんのことはちゃんと奥さんっていうのにね、わたしのことオバサンだって。失礼しちゃうわね。もう、買うのよそうかしら。」まだ、母が30代後半のことだった。大正15年生まれの母は、ちょうど昭和の年と年齢がほぼ一緒で数えやすい。東京の練馬にあった警察官住宅に住んでいた頃のはなしだ。それまで、山形出身の親切ないいおにいちゃんだと褒めていたのに、この日を境に母はこの豆腐屋にあまりいい顔をしなくなった。10歳くらい年下の今井さんの奥さんと張り合っても仕方ないと、私は子供心にはそう思っていたが。まして、今井さんの奥さんは京マチ子風の色気のある方で、豆腐やのおにいちゃんも気があったのかもしれない。「おねえちゃん、元気になって本当に良かったって言われたよ。」戦争中から戦後にかけて、母は秋田出身の従兄弟の家に住んでいた。家は、世田谷の経堂にあった。ここの家の子供たちは、もう皆70歳に近いが、いまだに母のことを「おねえちゃん」と呼ぶ。こういう言い方は、一生付いて回るからこれからも変わらない。母はなんだか、この「おねえちゃん」という言葉が好きなようで、この言葉を発するときは若干オクターブが上がるように聞こえる。母の青春を過ごした世田谷の家の生活がこの言葉にもしっかりと込められているのだろう。タコ社長、ちょっと前まではこちらで日本語教師をしていた。英語を母国語にする人たちに日本語を教えていた。勉強して初めて知ったことも多く、また驚かせられることの連続でもあった。日本語の人をさすときの代名詞の多さ、というよりこれは無限に作り出されてしまう。こんなこと一つとっても、興味が尽きなかった。「奥さん」も「オバサン」も、そしてこの「おねえちゃん」も日本語だからこその機微がある。英語だったらどうなるのだろうか。名前とかになるのだろうか。母が、アイダホ生まれのアメリカ人とかじゃなく、秋田県仙北郡生まれの日本人で本当に良かったと思うのは、こういう日本語の懐の深さを見せ付けられるときだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月19日
昨日は、オランダ系の連れ合いの父親の75歳の誕生日だった。朝の10時前から、夜の10時まで、ひっきりなしに家族、友人が訪れる丸1日のバトルだ。タコ社長、在宅だったので連れ合いと二人で11時に出向いた。60代、70代の兄弟や友人が既に10人以上いた。いきなり、ケーキ2切れから始まり、昼食、そしてアフタヌーンティーを詰め込んで帰宅した。こちらの誕生日は、開く方も行く方も結構体力勝負的なところがある。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月17日
「しっぽ巻いて帰って来ることだけは、しないでちょうだいね。」1987年3月、永住権を取得してオーストラリアに旅立とうとしていた成田で、母親が厳しい顔つきになって言った。オーストラリアの永住権の申請は、自分の国に帰ってからしないとならなかった。1年ちょっと住んでいたオーストラリアから帰国して、日本で半年結果を待ち念願の永住権取得となった。成田には両親が車で送ってくれた。親としては、ずっと海外に行ってしまうことへの複雑な思いもあっただろうが、それよりも「やっぱり駄目だった。」なんて帰ってきてもらっても困る、という気持ちがこの強い発言になったのだろう。飛行機の中で、何度も反芻していた。実はこの23年間、何度かしっぽを巻きかけたことがある。人間関係、仕事などいろいろな局面で壁にぶつかり跳ね返された。だが、しっぽが長過ぎて巻ききれなかったようで助かった。長いものに巻かれてしまったのだろうか。「今日は、赤飯炊いて切り干し大根を作ったよ。お父さんと二人で食べるよ。赤ワインも少し飲むよ。」秋田出身の母は、今日83歳の誕生日だ。電話したらそう言って声を弾ませた。切り干し大根の匂いが伝わってきそうだった。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月12日
メルボルンの夕刊フジ、ヘラルドサンから。どうして、こんなに楽しそうにできるのか、今度お会いしたときに伺いたい。それぞれの、思惑はまったく違っているかもしれないが、今年、またどでかいことをしそうな国の方々だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月11日
風のガーデンDVD、週末にかけて全て見た。初めての倉本作品だった。緒方さんの演技が現実とダブって見ているのが辛かった。彼は、死んでいく息子の姿を見守る父親の演技を、どういう気持ちでやっていたのだろうか。この映画で一番注目してみていたのは、緒方さん以外には誰だったろうか。実は私の場合は、床屋役の石田えりさんだった。実はタコ社長、こう見えても石田さんとは一度メルボルンで競演しているのだ。1989年12月29日のことだった。年末ぎりぎりというスケジュール。日本でも上映されたが、日本ではあまりぱっとしなかった「AYA」という映画に、当時タコ日本語教師、レストランの客として出演した。残念ながら、この石田さんと一緒に食事をするシーンは、朝の7時から入って12時間もかけて撮ったのだが最終的にはばっさりとカットされた。これで、タコ俳優の道は完全に閉ざされてしまった。海外にいると、日本人が少ないのでこういう機会が日本にいるよりはずっと多い。「緊張することないわよ、たかが映画よ。」待ち時間などで彼女と話すことがあったが、彼女はこういって私も気持ちをほぐしてくれた。その肢体と共に堂々とした態度に役者の風格を感じた。英語でのシーンも結構あったが、しっかりとこなしていた。そこへいくとタコ日本語教師、セリフは僅か一言でしかも日本語なのに上がってしまった。普段は、「役者!」とか言われているのに、本番では唯の人、落ち着きがない。この経験を踏まえてこの後、いろいろと準備はしてきているのだが、残念ながら未だに全くお声がかからない。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月10日
私が物心ついたときからずっと母は内職をしていた。大学生のとき母は内職を辞めて、近くのプラスチック成型会社にパートのオバサンとして働きに出た。警察官は安月給だ、母が働かないと大食いの私と兄を食わせられなかったのだろう。そんなことを知らずに、弁当のおかずに文句を言ったりして、今本当に母と父に申し訳ないと思っている。3年後に倒れるまで母はここで働いていた。当時、母は身長が154センチ、73キロだった。病気したので今は50キロになっている。「八ちゃんがね、オバサンとこの息子すごく仕事するよって言ってたよ。一番だってさ。」私は大学の1年生のとき母が働いてるこのプラスチック成型会社中央産業で夏休み中バイトをしていた。そこに、やや知恵遅れの17歳の八ちゃんという子が働いていて、その子が母にそういったという。1972年、7月から8月にかけて約一ヶ月間半、生まれて初めて母と一緒の職場で仕事ができた。後にも先にもこれ一回だったが、今思うと私にとっては掛け替えのない毎日だった。私は、母の手前もあり一生懸命真面目に働いた。そんなある日、8月16日のことだった。どうして、いまだに日付を覚えているのだろうか分からない。その年の6月8日に忽然と私の前から消えた、ジーンズの似合う松田早苗さんから電話があった。父は泊まりでいなく、兄は留守で母と二人だった。因みに彼女以外にジーンズが似合う人と思ったのは中野サンプラザで見たリタ・クーリッジの他にいない。「電話だよ。」母が夕食のときにかっかってきた電話を取り次いだ。「私、早苗。」私は一瞬、呼吸が止まるほど驚いた。6月13日の私の誕生日に、一生の思い出を作ろうといっていた早苗が、その5日前に消えたのだ。僅か一ヶ月半の交際だったが、一つ年上でその時婚約者もいて、それでいながらすべてから逃げていた彼女と知り合った。初めての大人の恋の第一歩だった。正直のところ、13日を迎えるのが怖くなかったといえば嘘になる。しかし、この人とこれからずっとと願っていた人だった。もう心に決めていた。その人がある日突然にいなくなったのだ。「ごめんね、あんな形でいなくなって。」「今、どこにいるの。」「金沢の友達のところにいるわ。探さないでね。」母は彼女のことをほとんど知らない。というよりも、誰も彼女のことは知らない。誰にも会わす機会さえなかった。そんな関係だった。食卓に母を一人にしているのが気になったが、私は早苗と電話を続けた。「家出の翌日にお兄さんに会ったよ。早苗の机の中から僕の住所を見つけたらしい。」「そう。」彼女は低くそう言ったっきり何も言わなかった。「元気でね。じゃ、切るわ。さようなら。」しばらくして彼女がそういった。初めて、死ぬほど好きになった女性、1951年10月25日生まれの早苗と私の最後の会話はこれだけだった。食卓に戻り、母には電話のことをほとんど話さずに食事を終えた。母も、何も聞かなかった。翌日も中央産業で何もなかったように母と一緒に仕事をした。19歳の夏休み、私は心をずたずたにされながらも笑顔で毎日プラスチックの加工の仕事をして過ごした。母は、それ以降も一切早苗の話をしたことはない。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月07日
写真は日本名、「笑いカワセミ」といわれる「クッカバラ」だ。何だか、悲しそうでもあり、怒っているようでもある。単に、お腹が空いているのだろうか。鳴き方が、笑っているように聞こえることからの命名だろう。本人(本鳥)は迷惑に思っているかもしれない。クッカバラはどんなに満腹になっても、笑顔は出てこないだろう。この肉食鳥は完全に名前負けしている。しかし、見た人に笑顔を作らせるという意味であるなら話は別だ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします
2009年01月06日
「連れ合いが一週間出張で中国に行ってるだよ。」秋田出身でいまだ色白もち肌自慢の母に電話した。今、82歳の母は85歳の父と元気に東京は東村山で暮らしている。「そうかい、大丈夫かい。羽伸ばしすぎて悪いことしちゃだめだよ!」タコ社長、今年57歳になる。この年になっても、母に信用がない。私の過去を知り尽くしている母には、今もって全くもって頭が上がらない。放っておくとすぐに悪いことをする悪ガキの域を出ていない。「分かった、分かった、大丈夫だよ。」どんなに転んでみても、今できる悪いこととは、この間水に落として駄目にしたipodを黙って買い換える、毎晩スタッフと飲み歩きカラオケなどに行く、毎日まったく掃除をしない、好きな60年代、70年代の音楽を聴きまくる、連れ合いが帰ってくるまでベットメイキングをしない、一番高い我が家の赤ワインを飲んでしまう、家に帰ってもず~とPCの前に座っている、もう絶対着ない服などを大量に捨てる。どう考えてもこれくらいしか思い浮かばない。自分の品行方正を褒めてあげたくなるほどの人生だ。どんなに年を取っても頭が上がらない人が一人はいてくれると、本当に泣きたいほど嬉しいものだ。下の箱をポチッとクリックお願いいたします。
2009年01月04日
謹賀新年。明けましておめでとうございます。いかがお過ごしでしょうか。去年のことをいうとオニが怒る、といわれているかどうかは未確認だが、昨夜の大晦日の話。30人ほどで中華料理屋の二階の年越しパーティーに呼ばれたので行ってきた。始まったのが7時半で、家に帰ってきたら翌年の1時半になっていた。なかなかの長丁場だ。年代がほぼ同じの集まりで、半分以上は初めて会う人たちだったが赤ワインの後押しもありすぐに打ち解ける。11時からはダンスもスタート大変な騒ぎとなる。日本のようにコタツに入りミカンに年越し蕎麦とかとはえらい違いだ。因みにタコ社長、日本にいるときは独身だったので一人机に向かい、今年逃げられた女性をいつくしんだりして一年を振り返っていたものだ。中華料理屋でデスコも味がある。曲は私も知っている70年代の曲ばかりで全員大合唱で踊りまくるが私は一緒には歌えない。ちょうど日本でいえば、みんなが知っている三波春夫さんの「チャンキおけさ」を歌いながら皆で踊るといったところだろうか。因みに、幼稚園の頃父と同じ年の三波春夫さんに豊島園で握手をしてもらって、歌の世界に進もうかと思ったこともあるが、その道は残念ながら叶わなかった。そして、年越しのカウントダウンとなり年が明けると、そこらの人みなとハグして派手なお祝いの挨拶。それからまた1時間ほど踊って帰ってきた。今日の元旦、8時に起きてまず野菜畑に2本植わっている菊芋に挨拶。どういうわけか、急に納豆が食べたくなりパックを取り出し、120回くらいこねくり回して、日本及び日本の家族、友達を思い一人で食べた。納豆がねばって私を日本に引き戻してくれる。オランダ系の連れ合いはまだ寝ていた。仕事以外で今年やりたいことを考えてみた。フォークギターをしっかりと弾けるようにしたいイタリア語を勉強したい妬まず、怒らず、愚痴らないをモットーに生活したい連れ合いとの時間をもっともちたい二冊目の本を出版したい自給自足の道を歩み飢饉がきても食料だけは確保したいたまには、本を最後まで読みきりたいロックンロールダンスを踊り続け、江戸時代末期のような「えじゃないか」運動が起きたら真っ先に参加したいこんなことが頭に浮かぶ。本年もいろいろとあるだろうが、皆様とこうしてお知り合いになれたのも何かの縁。この縁を更に強くさせていただけたらと願っております。よろしくお願い申し上げます。オランダ系の連れ合いの友人ともう、どうにも止まらないポチッとクリックお願いいたします
2009年01月01日
コメント(6)
「タコ社長、どうかしちゃったんですか。大丈夫ですか。一日に3回も日記をアップしたりしているじゃないですか。お連れ合いさんとはうまくいっているのですか。」日本の友人からメールが届いた。ここのところ、日記を書きまくっているので、何かあったと心配していただいている。嬉しい限りだ。書かないでいると心配されるし、書き過ぎるとまた心配していただける。何事も中庸が肝心なのだろう。でも、いつもこうして心配してくれている友人たちがいてくれるのは、何と素敵なことだろうか。私は凝ると、とことんいってしまう放っておくと危険なタイプ。異性に対しても然り、食べ物に対しても然りだ。こちらで、カツ丼に凝って昼に毎日食べていたことがる。シンガポールヌードルを一ヶ月毎日食べていたこともある。最近は、割とさっぱりしてきているが。というより昼を食べないことの方が多くなってきているので、しつこさに落ち着きが出てきている。異性に関しては、あまり具体的に書くことはここでは控えさせていただこう。頭とか背中も含めてかきたい事やところが山ほどあり、朝のウォーキングのときにどんどん浮かんでくる。問題は、ウォーキングを終えて戻ってくると忘れていること。そして、一生懸命思い出そう思い出そうとしているうちにその日が終わることもある。オランダ系の連れ合いは、SUDOKU,にはまっている。毎日、新聞のSUDOKUに挑戦している。朝起きると、朝食をとりながらやっている。従って、私との会話はない。何かに凝ることは、麻薬とかストリップ見物とか害になることを除けばそんなに悪いことではないと思う。バレーでもピアノでも、一日でも練習を怠ると力が後退してしまうという。因みに、バレーといえば小学校2年生の頃、バレーダンサーに憧れていたことがある。あの男性のタイツ姿に魅入っていた時期がこの私にもあったのだ。白黒TVの時代だった。中学の頃は、陸上部に所属していた。専攻は砲丸投げ。ここでも指導の先生から、毎日の練習の大切さを教えられた。「君たちね、筋肉を付けるのは大変な努力がいるが、失うにはちょっと練習をサボればすぐできる。」先生は、これに絡ませて勉強のことを言われたかったのだと思うが、私は筋肉の方だけに留まることにした。ということで、日記力も毎日書かないとつかないし、継続できないといわれている。だから書いているわけではなく、書くこと自体が楽しいのだ。しかし、本人が楽しいということと、読んでくださる方が楽しいと思われることには大きな差があることも多い。ということで大晦日。みなさんが、掃除やおせち料理に忙しいときに、こんな長ったらしい日記をアップすると、また連れ合いとの関係にご心配をかけそうだが、連れ合いはSUDOKUをやっているようなので安心だ。本年も皆様方に大変お世話になりました。世界中の方々とお友達になる可能性があるこのブログの世界、本当に宇宙的なパワーがある。来年も、皆様がたとの交流を本当に楽しみにしています。楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しい。これを私も実践してまいります。どうか良いお年をお迎えください。来年もよろしくお願い申し上げます。ポチッとクリックお願いいたします
2008年12月31日
Mornington という海辺の町の友人宅に呼ばれて行ってきた。奥さんはタイ人で旦那さんがオージーのカップルだ。ご存知ない向きもあろうかと思うが、私はこれでも大学でタイ語を勉強している。しかし、在学中はギリギリで卒業でほとんど勉強らしき勉強をせずに卒業しているので、自慢じゃないがまったくといっていいほど話せない。奥さんのジャルナンは本当に料理人だ。十分にタイ料理を堪能させていただいた。クリスマスが終わると、ちょっとダレた感じになる。日本の年の瀬と本当に違う。明日の大晦日は、20人くらいの友人とレストラン飲み食い騒いで年を越す。私はどちらかというと、静かにこの一年を振り返り、年越し蕎麦でも食べるのがいいのだが、こちらにいてはそうもいかない。ポチッとクリックお願いいたします
2008年12月30日
記録に残っている日本人の初めてのオーストラリアへの入植者は、1871年にサーカスの一団の一員として入植した曲芸師だったという。そして、オーストラリアを最初に訪れた日本人、日本人の一団もやはり曲芸団だった。メルボルンに1867年(慶応3年)に来た12人から成る人々で来たのだそうだ。タコ社長の曽祖父が栃木でかんぴょうでも作っていた頃のこと。しかし、明治維新の真っ最中、よくこんな所まで来られたもんだと驚く。我が大先輩移住者がサーカスの一員ということで、私も肩の力が抜けて親しみが感じられる。そう言わなくてもタコ社長、昔から演芸部長、宴会幹事長、その他関連名誉会長の職歴がツルツルと光ってまぶしいといわれている。してみると、元々オーストラリアへの入植の道ができていたことになる。さ~て大晦日まで飲み会のレンチャンだ。先輩入植者の方々を思いながら曲芸タコ踊りで乗り切りたい。クリックお願いいたします
2008年12月23日
人妻に恋してしまうほど切ないものはない。因みに、日本語にはどうして「人夫」という言葉がないのだろう。これは、「にんぷ」と読めてしまって、力仕事にかり出される人一般の意味になる。してみると、男は人妻を欲していて、女は単に力仕事人を欲しているということだろうか。なんだか、やるせなくなる。因みついでに、切ないといえば、人をお茶や食事に誘ってから十分な手持ちがないことに気づき、相手に払ってもらうハメになることほど切ないものはない。昔、カードとかがあまりない時代、会社の同期の男性を喫茶店に誘い30円しか財布にないことを思い出し、出るときに「俺が払うよ。」とか「割り勘だな。」などということさえ言えず黙って出てしまったことがあった。どうして、「30円しかないんだよ。」と素直に言えなかったのか後悔したが、それからその同期とは疎遠になってしまった。男で良かったとかの問題でもない。なかなか、本題に入れない。日本で知り合ったオーストラリア人のパットには素敵な旦那様がいた。パットは日本語が堪能で、英語で話す必要のない人だった。久しぶりにシドニーで会ったとき、旦那のケントと3人で食事になった。1981年のことだった。車で、ホテルまで送ってもらった。カーラジオからGrover Washington JrのJust the two of us. が流れてきた。するとパットが後部座席から、「Just the three of us. ね。」と笑いながらいった。助手席にいた私は苦笑いした。彼女は私の気持ちを嫌というほど知っていてそう言ったのだろう。私は急に気持ちが高ぶってくるのが分かった。「済みません、ケント。車を止めてください。」どうしても我慢できなくなってケントにそう叫んだ。ケントもビックリしたようだったが、車を公園の脇で止めてくれた。「どうしたんだタコ?」英語ではうまく言えなかった。私は、車から出て公園の中に走りこんだ。レストランの後にロックスにあったパブに行きビールを飲みすぎて、トイレに行きたかったが我慢して車に乗ったのがいけなかった。もう我慢の限界を超えていた。決まらない。そう、心で叫んで車に戻り、キングスクロスのホテルまで送ってもらった。満面笑みのパットと、苦みばしってかっこういいケントに別れを告げホテルに入った。人妻への叶わぬ恋と、切ない生理現象のダブルパンチの夜となった。クリックよろしく
2008年12月21日
「お父さんがね、自転車にまた乗れるようになったよ。」もうすぐ83歳になる東村山の母が、やや言葉を弾ませながらそういった。父は来年の3月で86歳になるが、2年前に前立腺癌を患い3ヶ月ほど入院している間に、足の筋肉が弱り歩行が困難になっていた。長い間、リハビリしたおかげでゆっくりだが、歩行もできるようになっていた。「石井先生がね、自転車に乗っても大丈夫っていうんでね、サドルをずーと低くして、三輪車みたいにして乗ってるんだよ。」病気をする前は、父は一日に何度も自転車で買い物に行ったり、母が作った料理をいろいろな所に分けてやったりしていた。元警察官の父は自転車乗りは板についていた。父は今、病気と共存ということではあるが、本当に元気になっている。入院中、私が見舞いに行ったとき、生まれて初めて父の泣く姿をみた。正直のところ、日本の短期滞在を終えて退院できないでいる父と別れることは、ない後ろ髪をしっかりと引かれる思いだった。それがどうだろう、もう二度と自転車には乗れないものと思っていたら、また乗って買い物なんかに行っているというのだ。「じゃ、来年の2月に帰ったときは、オヤジとまた一緒に自転車だね。」「駄目だよ、古いのは売っちゃったからもう一台しかないんだよ。」「そうか、じゃ俺がオヤジを後ろに乗っけて買い物だ。」母のしわ枯れた笑い声が受話器の向こうから伝わってきた。クリックよろしく
2008年12月20日
この前の金曜日、大雨の日に友人の息子の結婚式があった。金曜日の4時はからで披露宴を終えて帰ってきたら1時だった。このウエディングケーキ、既にお持ち帰りできるようになっている。初めて見た。赤ワインを飲みすぎて帰宅して、空腹を感じて食べてしまった。
2008年12月15日
久しぶりに、学生、ワーホリの方々を中心に業後パーティーを開催する。日本人、韓国人などが50人以上が集まった。若い方々と話すことほど楽しいことはない。私も、ついつい調子にのってしまったが、大いにエネルギーをいただいた。
2008年12月11日
「タコさん。」暗闇から声がした。毎朝7時に会社に出ていた頃の話だ。道路工事の交通整理の人が私の名前を呼んでいる。黄色と白の目立つ蛍光色の上着姿だ。「アンソニーです。タコさん、お元気ですか。」日本語だった。以前、キャンバウエルというところで一室を借りて日本語を教えていた。そのときの生徒のアンソニーだった。アンソニーは同僚のコリンと二人で学んでいた。実は、この二人はメルボルンの公園遊具の会社の社員だった。この会社が、日本の千葉県の柏市にある同業の会社と提携して、日本語を習うように会社から言われて学んでいた。そして、この私もこの会社から頼まれてチームの一員として日本に何回か行くことになったのだ。1989年のことだった。アンソニーは社内でも注目されていた若手のITエンジニアで、私も2度ほど一緒に日本に行った。陽気な性格で日本人、日本にも馴染んですぐに人気者になった。一時期、青森の工場に半年駐在していたこともある。私は、この会社でずっと一緒に仕事をしていたわけではなく、プロジェクト毎に必要に応じて雇われて仕事をしていた。日本語学校もやっていたので、私にとってはその方がありがたかった。この仕事のおかげで2年間に9回も日本に行くことができた。「アンソニーがみえませんね。」久しぶりに呼ばれたとき、私はコリンに尋ねた。「実は、もうアンソニーはこの会社にはいないんです。辞めたんです。いや、辞めたというよりクビになったんですよ。」元キリスト教会の牧師さんという変わった経歴のコリンさんがやや寂しそうにそう言った。「優秀で会社としても期待していた人材だったんですが、真面目さに欠け酒におぼれるところがあったんです。日本でもちょっと問題になってしまって。」柏の居酒屋で一緒に飲んだことが頭を過ぎった。バカ騒ぎして確かに心配なところはあった。オーストラリア人は酒に強く、仕事関係では人前で乱れたりしてはならないという不文律がしっかりとあるが、彼は大いにハメをはずしていた。「タコさん、今私はTraffic Officer なんですよ。」アンソニーは、昔のまんまの明るい笑顔で、今度は英語でそう言った。交通整理をしいる警察官とかじゃないので、この言葉はやや大袈裟だったが、彼はおどけてその言葉を使ったのだろう。もしかしたら、彼のプライドがそう言わせたのかもしれないが。元気で頑張ってください、と私が言うと彼は、「No worries !」と大きな声で応えた。「今度、コーヒーでも飲みましょうタコさん。」アンソニーのその言葉を背にしながら私は事務所の方に向かって歩き出した。東村山の母はよく言っていた。「今度」と「お化け」は出たためしがないと。その言葉の通り、アンソニーにはあれ以来会っていない。
2008年12月09日
昨夜は6時から12時まで、ジャーマンクラブのクリスマス会に参加。オランダ系の連れ合いの両親に誘われて出かけた。平均年齢は70歳に近いだろう。もうすぐ還暦のわたしにでも若手で通せる200人以上が集まり、一晩中踊りまくる。ワルツがやや苦手のタコ社長はロックンロールではがんばった。問題はドイツ語。分かるようで全く分からない。
2008年12月07日
なにしろ、邪魔なのだ。オランダ系の連れ合いの姑とかの話ではない。街中を猛スピードで走る自転車のことだ。ガソリン代高騰などもあり、自転車通勤がものすごい勢いで増えている。世界的な傾向なのだろうが。車との接触事故も多発している。自転車を登録制にしようという動きさえある。自転車といえば、日本に帰ると車のない両親宅ではこれが唯一の足となる。私は、小学校1年のときから26インチの自転車に乗っていた。足は短かったが、背が高かったのだ。「飴屋の自転車みたいだって言われたよ。」と父が我が家の自転車の話をした。その26インチの自転車のことだ。昔は自転車で飴を売り歩いている飴屋という職業があったらしい。おでん屋、紙芝居屋、焼き芋屋、アイスキャンディー屋、金魚屋、包丁砥ぎ屋、豆腐屋、竿竹屋なんかは分かるが、飴屋は知らなかった。確かに、ぶち壊したら戦車でも作れそうな、大きくて頑丈な自転車だったから、飴でも何でも積んで運べる。子供の時から考えてみると、我が家にもいつも何台かの自転車があった。8段ギアーのサイクリング車を買ってもらったときは本当に嬉しかった。でもギアーチェンジのバーの鋳物の質が悪く、すぐ折れてしまったりして慌てさせられた。チェーンもよく外れた。85歳になる父は足を悪くしてもう自転車には乗れない。数年前に購入した自転車は乗り手がいない。今では、帰国時に私が乗っている。「お父さんったらね、スーパーで知らない人に話かけてね、これは7万円もする自転車だって言ったらしいの。」あるとき、帰国したら母がそう言い出した。まだ父が自転車で買い物に行っていた頃だった。「何も、そんなことまで言わなくてもいいのにね。そうしたらね、その人『あら、そうですか。私のは15万でしたよ。』って言ったんだって。だから言わんこっちゃないのよ。まったくね。」父はそれ以来、自転車の価格の話はしなくなったという。一昨年、両親がそれぞれ入院したときには、私の帰国時この7万円の自転車が大いに活躍してくれて有難かった。次の私の帰国は、来年の2月になりそうだが、またこの自転車の厄介になる。
2008年12月02日
二ヶ月に一回、「恙無い会」と称して飲み会を主催している。私が、最長老という割と無理のきく会だ。私が呼びたい人だけを呼んでいて気楽で楽しめる会となっている。絶対に呼びたくない人もいるし、また逆に呼んでも絶対に来ない方もいる。この前の会で、高校18年後輩のK子さんと隣となった。「日本人の男の人で、人前でキスしたのを見たのはタコさんが初めてだったんですよ。」私はまったく覚えていないが、どうやらオランダ系の連れ合いと3人で会ったときに遅れてきた連れ合いに軽く挨拶をしたのをそう言っているようだった。確かに、いまでは日本でも結構見るようになったけど、ずいぶん前に、しかも年のいった私がそうしたというので記憶に残っているようだ。「じゃ、ロシアでは男と男が両頬にした後に唇でするのをしって知っていますか。しかも、親しい人には何と舌を入れるということですが。」話題を強引に切り替えるように、K子さんに問うというよりも、10人の参加者全員に大声で聞いてしまった。赤ワインの力、恐るべし。日本帰国の際に買った本にそういう記述があったという私の言には、誰もが信じられないとまったく相手にしてくれない。しつこく、この話題は10回くらいは繰り返したが。「エリツィン氏の場合、酔いが回ると、サウナの中では白樺の枝で友だちの背中を叩いたり、また、男同士で口元にキスをしたりする。三回キスをするのがしきたりだが、三回目には舌を軽く相手の口の中に入れるのが親愛の情の示し方である。もう少しレベルの高い親愛の情の示し方もあるのだが、それは日本の文化とかなりかけ離れているのでここでは書かないでおこう。」(佐藤優著 国家の罠 新潮文庫版238,ページ)タコ社長、作り話をしているわけではない。ちゃんと上記の記述に基づいた発言だ。ここで問題だが、「もう少しレベルの高い親愛の情の示し方」とは一体全体どんな示し方なのだろうかということだ。しかし、ここに迷い込むと、私の日記の信条である「さっぱりとした日記」を貫けなくなるのでよすことにする。とか思っていたら、何とそのものずばりの映像に出くわした。だが断っておくが、そのために映像を探したわけではない。ふとしたことでYou Tube で古い映像を見ていたら、10年ちょっと前のNHKの「映像の世紀」という番組に目が止まった。私は今の今までこんなすばらしい番組が放映されていたことを知らなかった。海外生活者の宿命だ。第一集から最終の十一集までダウンロードした。主題曲の「パリは燃えていたか」にもはまっている。「映像の世紀 第一集 20世紀の幕開け 8分割の4番目 9分15秒あたり」http://jp.youtube.com/watch?v=LQGz2Im2msAこれは、あのロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世が別れの挨拶をしているシーンだ。この行列の数に注目してもらいたい。今日は、いつになく本とか映像とか学術的になってしまった。個人的にはロシアの男性とあまり親しくはなりたくないと感じてしまう。もっとも、タコ社長、カムチャッカあたりの生まれで、ロシア語で日記なんか書いている境遇だったなら、毎日隣のトルストイみたいなオジサンとかとそんな挨拶をしていたことだろう。しばらくは、オーストラリアに住む日本人を続けさせていただきたいと願っている。
2008年11月29日
「昔、私はストリッパーだったの。」ダーウィンのカジノに一緒に行った、ユースで知り合ったジェニーがそういった。親戚にも、友人にもいなかった職歴で、一瞬聞き返そうかと思ったが、体にぴったりとフィットした黒いトップとタイツを見直して、さもありなんと納得した。1987年7月に、オーストラリアの右半分をバスで一ヶ月かけて回っていた。ビザは6ヶ月の観光ビザで、必ず永住権を取ると勇んでいたときのことだ。ジェニーは、若作りだけどおそらく40代の前半だったろう、もう前職は続けられないと学校でカメラの勉強をして、今はカメラマンだといった。フォーマルの場所に出向くこともあろうかと、バックパックには紺のジャケットを入れて回っていて、カジノだからそれを羽織って行ったが、ダーウィンのカジノはショーツとかランニングシャツの人までいて、まだオーストラリアのことをよく知らない私は、大いに浮き上がってしまっていた。そして、えらく目立つジェニーと一緒なので結構、皆の視線を感じていた。たまたま、ユースの隣ということで話がスタートして、カジノに行っただけだったのに。「私ね、今、ゴールドコーストで父親と一緒に住んでいるの。生活は楽じゃないわ。でも、何とかなるものね。もし、ゴールドコーストに来るようなことがあったら寄ってね。父もいるけど、泊まってもいいのよ。」旅先で受ける親切は、たとえ言葉だけだとしても嬉しいものだ。ところが、途中から彼女は急に無口になった。酒も入って、何か重い考え事に圧倒されているようだった。カジノへの行きも帰りも30分ほど歩いた。私は、無銭旅行でもしたいほどの貧乏旅行者、彼女も裕福にはみえなかった。タクシーの選択はなかった。真っ暗な道をゆっくりと歩く。彼女は、途中から黒い靴を脱いで裸足になってその両方の靴を肩からかけるようにして歩いていた。東京は東村山から出てきて、オーストラリアのダーウィンという北の果ての町で、真っ暗な夜道を見ず知らずの元ストリッパーと無言で歩いている。いったい自分はここで何をしているのか。重苦しい気持ちはあったけれど、自分の今までの33年の人生は新しい未知の世界に突入したのだなという思いだけは強く抱いて歩き続けていた。
2008年11月21日
「タコ社長日記」を来年の2月に日本で出版する、とある人に伝えたら、なんとその方以前は作家だったと返事をいただいた。今は、オーストラリアで大型バスの運転手をされている。「実は、私、20年以上前に官能小説を出しておりまして、当時の単行本化の作業の大変さには閉口した覚えがあります。帯のキャッチコピー一つでも、決まるのに時間がかかりますよね・・たかがエロ小説なのに。結局『激姦!新生バイオレンス作家登場!』と言う、目も覆いたくなる様なコピーでした。タイトルだって、もともと「YURIKA」だったのが「畳上の雫」と編集にいじられましたね、結局、速攻その世界からは足を洗いましたが・・」この方、もしかしたら私もエロ小説を出そうとしているのかと勘違いされているかもしれない。もっとも、非常に興味のある分野ではあるが。ただ、経験がものをいうこの分野では、私はどう足掻いても勝ち目はない。それにしても、この方の本のタイトル、思わず手に取りたくなる。タコ社長の本、どうなるのだろうか。
2008年11月19日
最近、サラリーマン時代に勤めていた建設機械メーカーに再就職する夢を続けざまに見る。これでうなされるとかいう夢ではないが、年は取っての再就職なのに相変わらず平社員。私は、平社員に憧れでも持っているのだろうか。この夢が当たって今からサラリーマンに戻るとは思えないが、昔一度だけ、夢が大当たりしたことがあった。中学2年生のときだった。理科の期末試験の出来が悪くて、自分でも気になってしかたなかった。試験返しもいらないくらい嫌な日々が続いた。発表の前の晩、その試験返しの夢を見た。点数が39点だった。そして、それが正夢となったのだ。「あっ、これ夢でみたのと一緒だった。」思わず発してしまった。同じ小学校出身の美しい西山和代さんが、色白の顔で頬を赤くしながらニコッと笑ってくれた。私のそのときの点数は、下から数えた方が早いものだっただろうし、決して褒められた点数ではなかった。それとは裏腹に、夢が当たったことが妙にうれしかったのを覚えている。後にも先にも、夢が当たったのはあの夢だけだ。当たって欲しいという夢は、3年に2回くらいは見るが、基本的には覚めてよかった、という夢がほとんどだ。世の中に、いい夢ばかり見る人っているのだろうか。もっとも最近は、起きていても寝ているような時があるのでどっちがどっちか分からなくなってきてお呼びがくるのかもしれない。
2008年11月16日
坂本竜馬は筆まめだったという。剣術の腕前もすごかった大柄な姉の乙女に送った手紙は結構残っている。ある手紙では、「運の悪いものは、風呂より出んとして金玉をつめ割りて死ぬるものもあり」と書いてある。実の姉への文章だ。この姉弟は本当に近い仲だったようだ。この一文をもって、隠し事がないと分かる。この言によれば、自分の最期は、運の悪いものではなかったことにはなる。風呂より出た瞬間に、男としてはこの痛い死に方は絶対に想像もしたくない。考えただけでも鳥肌が出る。もし、竜馬の時代にインターネットがあったとしたら、彼はこんな文章を常日頃書いていたのだろうと予想できる。「亀山社中社長日記」とかいって。さしずめ、「カメ社長日記」になろうか。私も、以前偶然だが「金玉火鉢」の話を書いたことがある。このキーワードで竜馬とつながった。なんだか、急に竜馬を身近に感じてしまった。
2008年11月14日
旅から無事帰宅。ゴルフは、まったく1年ぶりだった。土曜と、本日の二回、スコアーは125,137とさんざんだった。それでも、よくギブアップしなかったと褒めてやりたい。土曜の夜に、投宿した町Corowaで初めて路上パーティーがあるというので飛び入りで参加。人口6,000人の町で300人が集まった。企画委員長がパン屋のおにいさん。市長が、ガソリンスタンドのおやじさんということで、日本の村興しといった感じで気楽に楽しめた。6人でワイン5本と、割と抑え気味の夜となった。
2008年11月03日
やっとほぼPCがクラッシュから復活した。メールが山ほどかたまって入ってきた。その内かなりはジャンクメールだったが。「僕も、この業界は45歳で引退を考えており、その後、弁護士を目指しています。かっこいい弁護士ではなく、無料の弁護士を生涯のライフワークにしていきたいと思っています。ちなみにプライベートでは、10月25日に第4子の男の子を授かりました。女、女、男、男とトランプのような順番で生まれ続けています(笑)あと1名生んで、打ち止めしようと思います。」日本で活躍する同業者の方からのメールだった。30歳後半の方だと思う。このメールで3つのことに驚いた。1 45歳で転身するということ。(私はこの業界の最長老56歳。)2 次の職業を弁護士としていること。(私は、弁護士のお世話になったことはあるが。)3 そして、子供を5人まで頑張るということ。カトリックの方か?(私は、子なし。)私は、使い古しのサンドバッグ状態でダウン、カウント8くらいでふらついている。なんという、共産党のような計画経済的人生か。そして、おそらくちゃんとそうされていくのだろう。それにしても、いまどき子供5人というのはすごいものがある。こうなったら私も65歳で転身を図ることを考えないとならない。それから、漫才師を目指そう。そして、犬を飼って、私の代わりに犬に励んでもらおう。最近になく刺激をいただいたメールだった。
2008年10月29日