シドニードメイン公園でもよおした
ケビンが運転する車の助手席に私が、そして日本語教師の奥さんのパティーが後ろの席にいて私たちに話しかけてくる。1981年8月、仕事で訪れたシドニーで1年前に日本で知り合ったパティーと会うことになったのだ。日本で彼女と初めて会ったとき独身の真っ盛りだった私は、パティーの醸し出すえもいえない艶っぽさに少なからず心が動かされた。28歳、人妻だった。高田馬場にあるステーキハウスで友人のSから紹介されたのがパティーだった。黒いワンピースのドレス。左肩が大胆にあいたドレスだった。赤毛に近い髪が両肩にかかりそうなまでに伸びている。ソバカスまで色っぽい。青いパッチリとした目で笑顔が絶えない。本当にステーキな夜。「今夜はね、まずレバノンレストランで晩御飯。それから、ロックスのBasementで一杯やるの。」パティーは全て日本語で私にシドニーの夜の予定を説明してくれた。週末のBasementは混んでいて3人に2つの席しかない。パティーはケビンの膝に乗ってライブを聴いている。こんなことが全て絵になる。重すぎる人ではこういうときは様にならない。ライブと人混みで話ができないほどだった。私は、ゆっくりとビールを飲むたびに二人に目をやった。パティーは大きな目でお茶目に笑ってみせた。「じゃ、ホテルまで送って行くわ。」さんざん、仲の良いところを見せ付けられた私はやや食傷気味だった。パティーは私が思いを寄せていることは分かっている筈だ。こういう役回りは考えてみると割りと得意な方だったが。出るときにトイレに行きたかったが混んでいたので行かず出た。ビル・ウィザースの歌う「Just two of us 」がカーラジオから流れている。すると、酒の入ったパティーが歌い出した。♪~ Just three of us,,,, 彼女は笑いながらそう歌っている。開けた窓から冷たい風が車を吹き抜けた。私はこばかにされているように思えた。そして、車がドメインパークに来たとき、私はもうどうにも我慢できなくなって車から降ろしてくれとケビンに頼んだ。そして、急いでドメインパークを駆けた。やっぱり、Basementでトイレに行っていけばよかった。すくなくとも心を寄せている人とそのダンナさんの前で、私は公園を駆け抜けて用を足した。本当に決まらない。何をしてるんだ。4日後、シドニーからニューギニア航空に乗って、パプアニューギニアのポートモレスビーに向かった。機内はすでにニューギニアだった。フライトアテンダントも金髪はもういない。ふと手にしたJALのWinds. 日豪の文化特集号だった。パラパラとめくっていくと、突然そこにパティーの写真が出ているのを発見。「あっ。」と言ってしまった。「どうしたんですタコさん。」シドニーで合流して同行していた丸紅の橋本さんがびっくりして聞いた。「パティー先生の日本語教室」というそのページを指して、「ちょっと知っている人でね。」私は思わずにやけてしまったようだ。「ところでタコさん、ちゃんとマラリアの注射してきたでしょうね。今回行くネシアとの境のオクテディはマラリアがすごいんですよ。雨は年間300日は降ってるし。」ギョ!私の頭からパティーのことはすっ飛んだ。