真夜中の独り言。一年半ぶりですが、この日の日記くらい話しかけさせてください。
5月28日の日記は、毎年カテゴリーが「真夜中の独り言」かと思ったら、 あれ?去年はその日も普通に国バラ日記を書いている。 「一年に一度くらいは、「真夜中の独り言」してもいいよね」と日記を書いたのは、 あれは2009年のことだったんだね。 2009年12月以来の「真夜中の独り言」です。 2005年から始まった日記、ゆみが頑張ってるのを読んでほしいから、って これまでも何回か書いてきました。 それぞれの道をがんばろうと、決めた人に。 それは日記を始めるよりずっと前の出来事でした。 その時のゆみは、納得して同意したわけじゃなく、だけど反発もできず従うしかなく そのことの意味をずっと考えていたと思います。 だから日記が始まって、ずいぶんここにも書いたりもして、そうすることで自分自身 いつのまにか納得していることに気付かされたものでした。 それでも日記で、ただ、どこかで見守っていてほしい、と 甘ったれな根性を丸出しにしていたね。 自分が向かっているものに対してひたすら真摯な姿勢で日記を書いていた時、 何度か厳しいコメントをくれました。 あの時は、わかったと思っていたけど、実は全然わかってなかったね。 「懲りるということを知らない」と言われた事柄に・・・ 自分ではもうけじめをつけたと思っていながら、いつまでも関わっていたゆみでした。 日記を見ることがありますか?情報は届きますか? この春本当に、けじめをつけました。本物のピリオドです。 「同じことの繰り返し」と言われたけど、もう今度は繰り返さないんです。 そのことだけでも、伝えたいと思いました。 今度はほんとって、何度も言ったかもしれないけど、ほんとにほんとです。 回りからも言われたし。 長年見てたら、みんなわかるみたいです。 でも、無駄な時間だったとは全然思ってなくて、それはきっと多くのことを得た回り道で、 傷つくことや理不尽なことがあったのは、それ以上に価値あることや楽しいことが あったからなんだと思います。 結局美談にするんだねと言われそうですけど。 今、過去の日記を初めてプリントアウトしています。 読み返してはいなくて、淡々と作業していますが、つい目に入る文字だけ見ても、 恥ずかしいところばかりです。 「あ、やっちまってる」と思うようなことばかりが目につきます。 実際にしでかしてることももちろんなのですが、それを日記に書いた自分に驚きます。 それほど切羽詰まっていたんだと思います。 自分のことがちゃんと把握できてないから、書いて理解していった一歩一歩なんです。 題名を並べただけでも、何をそんなにひたすらに頑張ろうとしてたのだろうと呆れます。 そしてもう大丈夫、ばかり言っていて、実はちっとも大丈夫じゃなく、 同じことの繰り返しで、いつもどこかで苦しんでいる。 当時注意されたことが今なら、ゆみだってそう言うよ、と思います。 なんだろ、この子は、と呆れます。 自分の書いたことだから、「責任を持って」と思って残してきたんだけど、 しばらくして、プリントアウトしたモノを読み返すことがあったなら、 もしその時、残すに堪えられない、と感じたら、2005年の日記は削除するかも しれません。 いつのまにかゆみは・・・「がんばる」とか「きっと大丈夫」とか言わなくなりました。 それだけでも進歩で、頑張りすぎてない証拠だと思います。 もう一つ、友達に言われたことがあります。 「ゆみちゃんは”がんばる”とか”想い”とか言わないこと」 頑張るは無意識に使っていた言葉ですが、「想い」は意識を持って使ってる言葉です。 何でもかんでも、誰でもに、「想い」と言っているわけではないんです。 ゆみの中で「想い」は消えないもので、通りすがりの人にむやみに「想い」を 持つわけではありません。 自分が過去日記を見ると、大事そうな人がいっぱい出てきてびっくりしますが、 「想い」とは別の次元です。 関わりが深くない人には「想い」という言葉は使いません。 日記を書き始めて6年以上がたちました。 もともと抱えていた想いは、形は変わっても心に居続けています。 その後に芽生えたさまざまな思いの中で、想いは一つだけです。 これだけは、自分の中に背負うと、決めたことが一つあります。 「想い」とは、逢いたいとか関わりたいとか見ていてほしいということ、 と思ってきたけれど、いつのまにかわかったのは、 「その人が生きていてくれたらそれだけでいい」という気持ちなんだと思います。 もちろん、亡くなってしまっても、想いは薄れるどころか、より強くなるのでしょうが、 もし生きていてくれるのなら、それだけで嬉しいと思う。 今、その「生きてるか」でさえ、確かめられていない人を心配しています。 どんな状況だって、生きてたら、笑うでしょう。楽しい瞬間もあるでしょう。 そしてその人が、その人にしかできない、その人の使命を全うすることで 人生の喜びがきっとあるでしょう。 選び取った人生で、そういう日々を過ごせているなら、それが、ゆみには嬉しいことです。 幸せな笑顔は、見ることが出来なくても、心の目に感じられればそれでいい。 それは、「願う」というよりは「祈り」です。 そんな祈りをすることが、心の日常になりました。 いろんなことを考えて考えて考え抜いていくと、人は「無欲」になっていきますね。 欲しいものさえ、欲しいと思わなくなる。きっとそのほうが楽だからなんでしょう。 もっとこうしたい、ああしたいと考えている方が何かを見失い、 無欲なって初めて、想いも確信するのかもしれません。 それはきっと、人生の中では短い期間でも、与えてもらったもの、与え合えたものの 大きさを感じているからなんですね。 確かなものが、十分なものが、きっとそこにはあったから。 全体的にね、今わかってきたことは、今はまだ言葉ではうまく表現できないもののようです。 いつもながら、「何言ってんだか」な文章を並べてしまいました。 でもね、何かが変わってきています。 これまで大事だと思ってたものさえ、そぎ落として、ゼロに限りなく近い自分になった時に 心に残るもの・・・ 振り落しても、しがみついて落ちないもの・・・ それが何かということが、わかってきています。それだけは絶対捨てないもの。 心の宝物は、大切にしていい・・・ そしてあなたがほかのことをすべてそぎ落としても、これだけは大事、と選び取ったもの、 人はやっぱり、そこを大事にしないといけないんだなと、今ひしひしと思います。 それぞれの使命だから。 放棄することが許されないと自分自身が思うのだから。自分の原点だから。 うーん。来年はもう少しましな文章が書けるといいです。 ストレートに書けない文章は余計難しい。 日記の題を、今やってる作業が終わったら変更します。本当の卒業。 過去日記を削除することがあっても、ここからいなくなることはないです。 毎日、一歩一歩、と言っても、なかなか成長しないゆみですが、 今は進む方向は見失ってはいないです。 一つ歳をとって、また大人になっていくのでしょうね。 いつまでも全然追いつきませんが、それでも、負けないように一歩一歩、歩きます。 そうそう、トイプードルの子犬を飼いました。 これを書いてる間じゅう、Pinoが膝の上で寝ています。 熟睡なのでかなり重くて、もう腿がしびれてきちゃいましたよ。 ゆみの勝手な真夜中の独り言でした。