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カテゴリ:次女
不登校 という病気がある。
ちょっと前は、 登校拒否 という名前だった。 日本で、そんな病気がまだ、 ぜんぜん騒がれていない時代の昔々。 次女にそんな兆候が表れた。 始まりは、幼稚園への、登園時間がくるころ、 「お腹が痛い」という言葉からだった。それが、 毎日起こるようになっても、 そんな病気があるとはつゆ知らなかった私達は 「あ~~、また始まった~~○○ちゃんのお芝居が~」と 軽く受け流していたものだ。 でも、おかげで、それ以上は大げさなことにならなくて、 小学校3年生を迎えた。 ある日 とうとう、学校に行けなくなってしまった。 次女が、ぽつりぽつりと話す、上級生の いじめっ子グループのことを、先生に告げたところ、 先生達は何も気がついていなかった。 6年生のいじめっ子グループは、謹慎を食らった。 別の小学校へ全員転校させられたらしい。 次女の学校は、すごい。 普通、世間では、いじめられた方が、転校するのが常識だ。 有り難かった。 でも、傷ついた心は、すぐには元に戻らなかった。 1ヶ月間、 私の実家の母が、私の直ぐ上の姉と一緒に 過ごさせてほしいというので、面倒をみてもらった。 夏子姉さんは子供がいなかったので、とても喜んでいたのだ。 そこでの次女の生活は、 朝になると お腹が痛いと言って、学校をお休みした。 何も食べられないのだった。声も出ないようだった。 授業の終わる頃の時間になると急に元気になって、 食事をぱくぱく食べるやら、 夏子姉さんと楽しく遊んだり、仕事場に行ったりしたそうだ。 再び朝になると、お腹が痛くなるのだった。で、毎日、 同じ事の繰り返しの1ヶ月だったそうだ。 とうとう、先生から、転校手続きに必要な書類を渡された。 私の父に挨拶に行くと 「あのな、できたら転校させない方がいいよ」と、言う。 私は、それで、腹が決まった。 「そうか、よし、がんばってみよう」と。 後に、 姉が嘆いた。 「私と○○ちゃんとは、楽しく暮らした1ヶ月だったのに、 帰る時、親と一緒に車に乗った○○ちゃんは、 一度も私を振り返ってくれなかった。 親って、そんなにいいもんだろか?」と。 今になってそれを思いだすと、私自身、姉に、感謝の気持ちを しっかり現していなかったような気がする。 夏子姉さんごめんなさい。 それからは、学校に行かず、夫と私と次女と、3人で、 いろんな楽しいことをして、元気づけた。 一緒に尾瀬に行ったり歩いたりもした。 1ヶ月ほど経った頃、 学校に行くと、言う。 私達は、大喜びで、元の小学校に帰った。 すっかり治ったかと思っていたが、 戦いは、まだまだ続いた。 次女は、中学生になるころ、極度に怖がっていた。 中学校で、いじめられるんじゃないだろうかと言うのだ。 どんなに景気をつけても、不安がぬぐえず、毎日心配するのだった。 中学生になって、登校すると、大抵気分が悪くなって、 保健室に行って、休んでいた。 クラブ活動は、姉の影響で、ブラスバンドに入った。 長女も高校のころ、ブラスバンドで、トランペットを吹いていた。 ブラスバンドのトランペットがうまくなるにつれて、 次女は、自信がついて来たらしい。 ファーストを担当するようになって、ますます元気になった。 もう、保健室には行かなくなった。 高校生になって、 英語の弁論大会があった時、消極的な次女には、 先生からお声がかからなかった。 しかし、 次女は、弁論大会に出たかった。と、言うのは、 姉も、兄も弁論大会で、賞をもらっていたから、 いつか自分も出たいと密かに決めていたらしいのだ。 ある日、先生に出させてほしいと自分から言ったところ、 次女は内向的なやつだと思っていた先生は、 まさかと驚いたが、しぶしぶ、 地域の小さな英語弁論大会を探して、出させてくれた。 そこで何と次女は、優勝してしまった。 先生も生徒も友人も驚き、 校内で、数回、発表の機会を作ってくださった。 次女は、すっかり不登校の病気を克服した。 いや、 自分では、まだちょっと片鱗が、残っているようだと、 言っている。 現在3人の子供の肝っ玉かあちゃんにはなってはいるが。 次女がまだ、小さな2才だった頃から5才まで、 私達夫婦は、忙しすぎて、車で、走りまわっていて、 いつも留守勝ちだった。子供達の世話をお手伝いさんに まかせっきりだった。 それが、小さな次女には、辛かったにちがいない。 それが、トラウマになったらしい。 それが、そもそもの原因だと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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