子宮でモノを考える
子宮をなるたけ残したいかどうか と問われれば それは子供をまだこの先産む気があるかどうか という意味なのだろう。年齢的にはぎりぎり可能なのかもしれない。でもあたしたちは ふたりの間の子供をつくろうとは思っていなくてそれぞれに2人ずつ子孫を残したわけだから 社会的義務やら責任やらは一応果たしたとも言えるわけだしいまさら 育児やりだしたら山にも行けなくなるし何よりお金ないよねえ という結論を出して つまりずっと避妊をしている。だけど互いにきっと できちゃったらそのときはそのときで当然産んで育てるしまたあの若かりし頃の貧乏に戻るのも大変だけどそれもまた人生の面白さなんじゃないの というスタンスがどこかにあった。だが いざ子宮を手放すということは どこかに抱えていたそのこのひととの子供を産んでみたいというオンナとしての本能的な願いや可能性を未来永劫奪われることでもある。その覚悟が 果たしてあたしにあるのか。子供を産む前にそれを強いられたひとからみれば 贅沢な悩みだろう。あたしは一応 母となり その上での選択であるのだから。昨日検査の結果が出て その病院では手術できない場所に筋腫があることがわかった。来週紹介された病院に行く。繁忙期前の手術を望むなら きっと早々に結論を出さねばならないだろう。夫には おまえは理屈っぽいくせに結論が無茶苦茶だと言われることが多々ある。きっとそれはあたしが 子宮でモノを考えるからだとなんとなく思っていた。あたしにとってそれは 男性が女性を侮蔑したときに言う それとは違い男性には出来ない女性だけがもつ特権としての 誇らしげな言葉の響きを持っていた。その子宮を失ったとして あたしはこの先どこでモノを考えるというのだろう。