ベジタリアンに思う
私は、自分が口にする食材について、気遣うようになったのはそんなに古くはありません。アセンションを意識するようになって、それからかなり後だったと記憶しています。私なりの食材の選択理由は、ピュアな身体を目指す事でした。高次元からの信号を感じ易い身体作り、アストラル体の活性化、血液の清浄化、調和のとれた身体と体重、こんな事が主な目的でしたね。清浄な食材を、なるべく選んで食べたいと言う趣旨です。でも、自然食品愛好家のように、シビアな選択はありません。自分たちで栽培した野菜や、島の海で獲れた新鮮な魚貝類や海藻を主に食べさせていただいています。魚大好き人間ですから、ベジタリアンとは言えません。何故か、精神世界の人達のお決まり的存在がベジタリアンであるという事が久しく言われていたように思います。古くは、修行僧の精進料理、日本神道の「四足の獣」の穢れ、ということも言われていました。ここで考えておきたいのは、魚貝類も動物性蛋白食品では在りますが、哺乳類の肉とはまったく別物で区別しなければならないと、私は常々思っておりました。魚類の殆どは、たくさんの卵を産みます。一回の産卵に、数千から数十万もの卵を産むようです。ただの種の保存という観点からは、あまりにもその数は多いですね。これは、食物連鎖という方向から考えれば理解できます。自然の摂理が、食材として地球に存在させたという明快な根拠なのですね。野菜や果物、海藻といった食材と同じ使命を持っていたのが魚類なのです。そして、日本は島国です。古くから海と関わってきました。「三里四方に病なし」という言葉があります。自分の生活圏内の食物を食べる大切さを言っています。これは、自分の波動と共鳴する食べ物が三里四方なのですね。外国産の野菜より国産、しかも地元で採れたものがいいに決まっています。実は、魚もそうなのです。魚を食べて、母なる海の波動をも身体に取り入れられるのです。だから、霊的成長には必要な食材が、お魚チャンなのですね。そして、出来れば魚を丸のままから調理したい。子供たちにも見せて、触らせて食べさせたい。勿論、力いっぱいの感謝を込めて「いただきまーす!」でしょうね。どんな食べ物でも、天から与えられた恵みであるのですから。私の今まで避けていた食材は、哺乳類の肉類、ファーストフードやコンビニのジャンクフード、加工食品、インスタント食品・・・・・避けていた理由は、不調和の波動を持つものや、化学薬品が多く含まれていると思えるものです。私の場合、自然食愛好家のように自分の主義に反する物は、絶対に拒否するといった厳密なものは初めからありませんでした。その考えを、今は更に柔軟になってきました。お酒も、適度に飲んでおります。(さすがに、タバコは吸えませんが)ある程度、霊的覚醒が進んでくれば、逆に問題となってくるのが分離意識です。良しとするものと、駄目とするものの分離です。良くないという分離の意識が不調和を起こし、返って霊的成長が遠回りになると思うからです。又、菜食の完全主義的に至った場合、自らの主義に反した場合の罪悪感にさいなまれたり、自分の思想を理解できない人や実践できない人への軽蔑観が生まれたりもします。この分離意識は、食品の毒以上の毒となるでしょう。他人の選択は、最大限に尊重しなければならないことは、お解りですよね。ある程度、統合意識に目覚めた魂にとって、あまり食材にこだわらなくてもいいのではないかと感じるようになりました。どこかのお宅にお呼ばれで行った時、たまたま手料理の中に肉類の料理が出て来た時、「私は菜食主義だから、食べられません。」と拒否するのではなく、少しはいただいけるくらいの幅が必要に感じます。身体が、まったく受け付けないというのであれば仕方が無いですがね。そして、食材を自由に選択できる内はいいかもしれませんが、出来ない状況すらあるかもしれません。生命体としての地球が、自らのクリーニング、自浄作用により災害等が発生する可能性は多々あります。一時的か、継続かは解りませんが、食糧の流通が上手く行かなくなる事も充分考えられます。そういう時に備える意味でも、柔軟に考えられるのはいいのかなと。何を食べさせていただいても、大切なのは感謝の心です。この世に存在するという事は、天から許されているから存在できるわけです。統合意識を構築して行くには、在る事を受け入れるという事。それが、“在るがままを生きる”という事なのでしょう。分離ではなく、合一が解脱への扉です。今年は山菜類が早いです。このコゴミは例年ですと連休後半。天婦羅、おひたし、和え物に、たくさん食べさせていただきました。山菜は、地のエネルギーがいっぱいです。霊性を高める影の存在たち、ありがたい・・・」