動くことば動かすことば
動くことば動かすことば5つの戯曲の女主人公に焦点をあてたレッスン。セリフをからだを通して読んでみる。いきいきと女主人公が自分の中に息づく。夕鶴のつうが私にはとてもつらかった。つうのセリフをことばにしてみる。涙がとまらなかった。ついにモノローグがダイアローグにならなかった。対話にならなかった。悲しいすれ違い。西洋のドラマではこの女が男の気持ちを察してあげるという関係の構造は現れることのないやりとりだそうだ。そもそもドラマとはギリシャ語のドラン=行動するという言葉から出ている。自分の意思を明確にことばで表現して相手に働きかける、行動する。「察してもらう」という非行動はないのだと。「甘え」と一対の「察してあげる」は日本では家族だけでなく社会的な身分関係全体に浸透している態度。「男」としてちゃんと「あたし」を見て、というつうの願いはむなしくすれ違う。与ひょうはただ受け入れてくれない!察してくれない!という怒りにとりつかれてしまう。つうの悶えとそれにまったく気づかない与ひょうとのすれ違いの繰り返し。絶望感。結局ふたりともひとりとして立つことはできなかった。だから対話はなりたたなかった。でもひとりで立つとはどういうことなんだろう。ひとりで立つなんてことができるんだろうか・・。神様が私たちをひとりで立たせてくださるのかも知れないな、とふと思う。矛盾しているようだけれど、わたしはひとりで立つことのできない弱いものだということを本当にからだでわかったとき、自分で自分がと思うこの思いをすべて神様に明け渡して祈るとき、人はひとりで立つことができるのかも知れないな。神様にすべてを明け渡すことができるのは、神様が本当に今のままの自分を愛してくださっていることを知ることだから。今のままの自分をそのままそれとして見つめること、意識的に生きること。私は演劇部にいたことがあったり、お芝居が好きだったこともあって、この本に紹介されている戯曲は大体いままで読んだことがあったのだけれど、こんな風に自分の中にことばが入ってくる読み方をしたことがなかった。人形の家のノラも新しいノラとして私の中に飛び込んできた。まさにドラマとは行動なのだ。からだが動くのだ。竹内さんのあとがきより。「わたしたちは、さまざまな相談事やカウンセリングの実例で、十分に愛されなかったもののトラウマについて聞く。あらゆる悩み、混乱、叫びや怒りは、愛に満たされさえすれば癒されるだろうと。そうかも知れぬ。だが、これも一つの現代の神話ではないのだろうか?仏陀はいみじくも渇愛となづけた。愛されたいという執念はあらゆることを呑み尽くす。 人が、生きる、とは過去の餌食になることではあるまい。愛されようと待つことによってではない。今、行動すること、選ぶこと、あらゆることを超えて持続すること、によるのではないか。」竹内敏晴さんの竹内レッスン、いつかきっと受けてみたいな。(ちょうど何日か前に岡山でレッスンがあったのです!行きたかったな~。急に入った仕事の都合で行けませんでした!あー残念!)*人気ブログの最新更新情報はこちらからどうぞ。*