東京新聞 平和の俳句
東京新聞は「平和の俳句」を公募し、金子兜太さん、いとうせいこうさんが選者となって、毎日新聞紙場に発表しています。 今日3月10日の作品は?(東京新聞2015年3月10日付)↓ 三月十日南無十万の火の柱 2015年3月10日 古谷(ふるや)治(91) 千葉県我孫子市 <いとうせいこう>東京大空襲。見たことのない私でさえ土地の記憶で知っている夜。 <金子兜太>敗戦を決定的にした米軍機の夜間東京大空襲。死者十万。 東京大空襲から70年となる今日、東京新聞は東京各地で開かれる追悼の会を紹介し、この平和の俳句を詠んだ古谷さんにも当時の状況や、心境についてインタビューしています。↓(東京新聞の記事) 太平洋戦争末期の一九四五年三月、下町を中心に甚大な被害が出た東京大空襲から、十日で七十年。十日には、犠牲者らの遺骨を安置した東京都慰霊堂(墨田区)で法要が営まれる。条例でこの日を「平和の日」と定めている都も記念式典を都庁(新宿区)で開くほか、都内各地で追悼行事や集会が予定されている。 東京大空襲は、米軍のB29爆撃機約三百機が建造物などを焼き払うことを目的に、現在の東京都江東区、台東区、墨田区などに焼夷(しょうい)弾を無差別に投下し、大規模な火災が発生。推定約十万人が死亡し、約二十七万戸が焼失したとされる。 * 台東区の上野公園周辺では九日、大空襲で家族を失ったエッセイスト海老名香葉子さんらが「時忘れじの集い」を開催。千二百人が参列し、向島区(現墨田区)で被災した無職三輪明さん(75)=千葉県船橋市=は「体験を若い世代に継いでいかなくては」と話した。 三月十日。一晩で十万もの人々が炎に焼かれたとされる東京大空襲から七十年のこの日、「平和の俳句」に選ばれたのは、焼け野原でがれきの撤去にあたった古谷治さん(91)=千葉県我孫子市=だ。 中央大学の学生だった一九四五年一月、学徒動員で東京都北多摩郡小平町(現小平市)の陸軍経理学校に幹部候補生として入学。軍の食料調達などを担う道に就いたばかりだった。 三月十日未明。「起床!」の非常呼集(こしゅう)で飛び起きると、暗闇の中、都心方面の南東の空は真っ赤に焼け、おびただしい数の火柱が立っていた。トラックの荷台に乗り込み、直ちに出動。下町の北千住から日暮里一帯の幹線道路を覆うがれきの撤去を命じられた。 残り火がくすぶる中、黒焦げの遺体があちこちに転がり、骸(むくろ)は山積みになった。「地獄絵を見る思いだった」。ぼうぜんと立ち尽くす人には掛ける言葉もなかった。自分も泣くわけにはいかない。ただただ手を合わせた。 俳句に詠んだ「南無(なむ)」とは、仏などへの帰依(きえ)を意味する。「おのれをなくして神仏に従い、すがるしかない」。当時は言葉にできなかった思いを、七十年後に形にした。 古谷さんは戦後、中央官庁の役人として働き、政治家を間近で見てきた。今、戦争を知らない世代の政治家たちが国を動かすことに「坂道を転げ落ちていくような」不安を覚える。 「私たち世代にも失敗はあった。かといって、戦争を知っているわれわれが、暴走しがちな『歯車』を歯を食いしばって止めないとどうなるのか。その使命の重大さ、平和のありがたさをかみしめて、鎮魂の一句をささげた」 (矢島智子)