新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編20)
▼日航ジャンボ機墜落事故614日は早朝から雑感取材で駆け回った後、午後からは続々と現地を訪れる犠牲者の遺族の取材に追われた。地元の体育館などには、墜落現場から次々と遺体が運ばれてきていた。遺体にも明暗がある。最初のころ運ばれてくる遺体は五体満足のものが多く、身元の確認も比較的容易であった。もちろん遺族にとっては、どのような遺体でも悲しいことに変わりがない。しかし日が経つにつれて運ばれてくる遺体は傷みが激しく、五体満足なものが少なくなってくる。手足がもがれたような遺体と対面しなければならなかった遺族の衝撃は、いかばかりであっただろうか。前線での私の“職場”は、その後の約一週間、遺体安置所と遺族の控え室であった。遺体安置所は体育館が使われた。運ばれてくるのは、身元が確認された遺体。日航が用意したとみられる白木の棺に入れられた遺体が一つ、また一つと入ってきて、一つずつ台(テーブル)の上に置かれる。広い体育館がほぼ満杯になるのにそう時間はかからなかった。記憶では、こうした体育館が2,3箇所あった。強烈な印象として残っているのは、白木の棺の内側から染み出てくる体液とみられるシミであった。白い棺の下部を大きなシミが広がってゆく。おそらく棺には腐乱を防ぐためドライアイスなどが入れられているのだろうが、いかんせん真夏の猛暑である。遺体が腐り始めるのにも、そう時間はかからない。防臭剤の薬品と死臭が混ざった甘酸っぱいような臭いで、体育館は充満していた。私の職場は遺体安置所であったために、編集庶務の人は遺体安置所にお弁当を届けてくれた。私はそれを体育館の片隅に置かれていたテーブルの上で食べた。遺体の臭いが漂う中、あるいは遺体を前にしてお弁当を食べるのは最初、気が引けたが、持ち場を離れるわけにもいかないし、ほかに適当な場所もない。遺体が安置される光景を見ながらの食事を続けた。遺体安置所に一時置かれた遺体は、遺族の希望があれば近くの葬儀場で葬儀をした後、火葬場で荼毘に付された。もちろん地元に遺骸を持ち帰り、そこで葬儀をする遺族もいた。一方、なかなか迎えに来ない棺もあった。かなり遠方の被害者で、親族が集まるのを待っているのかもしれなかった。(続く)