新聞記者の日常と憂鬱(浦和支局編67)
▼ホピの予言2緊急集会の目的は、ホピの予言を外部に公開するかどうかであった。とういうのも、石板には、二つの世界大戦と広島、長崎への原爆投下とみられるシンボルが刻まれていたからである。原爆はホピの言葉で「灰のびっしり詰まったクッション」と表現されていた。このままでは地球が破壊されてしまうことを人類に警告すべきではないか――。精神的指導者「キクモングイ」たちの意見は一致した。三人のメッセンジャーがその会議で選ばれ、ホピの予言に込められた教えと警告を世界に伝えていくことになった。宮田さんが1978年に出会ったのは、その三人のうちの一人バンヤッケであった(三人の中で最後まで残っていたバンヤッケも1999年に90歳で死去した)。ホピの聖地は当時から、莫大な量の石炭や石油、それに地球最大級のウラニウム産地として開発が急激に進んでいた。ホピの聖地から採掘されたウラン鉱石が核兵器など核開発に使われていたのである。日本の原発に使われるウラン鉱の一部も、ホピの聖地で採掘されたものであるという。しかも聖地は、核廃棄物の巨大処理場に変貌してしまった。ずさんな核廃棄物処理のせいで、ホピやナバホの人たちの中からは「被爆」するものも現われた。聖地は開発の名の下に破壊され、ホピは汚染に苦しむことになった。それは人類が直面している危機そのものであった。宮田さんはバンヤッケによって語られるホピの予言を通じて、ホピの聖地が現在どのような危機に直面しているかを映画の中で訴えた。「文明が母なる地球を被爆させ、その呼吸を困難にさせているのだ」と、宮田さんは言う。「ホピの生き方こそが、この地球の病を治す唯一の道である」宮田さんはその後、89年から6年かけて日本とアメリカを頻繁に行き来し、第二部の制作に取り組んでいたが、95年3月編集作業に入る直前、米国滞在中に脳内出血で倒れてしまった。一命はとりとめたが、重度の後遺症が残り、現在療養生活を続けているという。