26日の日記
◎古代飛騨王朝を探して第一部 謎の技術集団(五回続きの五)▼飛騨の匠大化改新(六四六年)を経て律令制が確立されるようになると、日本全国それぞれの地域が大国、上国、中国、下国に分類された。飛騨国はその中で、最低ランクの下国に位置づけられた。そのほかに「下国」とされたのは、伊賀国、伊豆国、和泉国、佐渡国、対馬国、壱岐国、淡路国、隠岐国、志摩国の九カ所だけだ。飛騨国以外はみな、小国か島国で、当時「中国」と同等の実力があったとみられる飛騨国は、不当に「下国」にされた疑いがある。●それに加えて、すべての国土に平等に適用されるはずの律令も、飛騨国にとって不利であった。唯一、飛騨という特定の国に対してだけ、租庸調(そようちょう)のうち庸調を免ずる代わりに匠丁(しょうてい)(大工)を徴用するという「斐陀(ひだ)国(こく)条(じょう)」が定められたからだ。なぜ飛騨国だけが、匠丁を都に出さなければならなかったのか。この理由について、朝廷に背いた人物を排出した飛騨国に対する懲罰だったとする見方がある反面、それだけ飛騨の人々の技術力が秀でていたとみることもできる。つまり朝廷が一目を置かねばならないほど、飛騨の技術者集団は優れていたとも考えられるのだ。その技術力はどこから来たのか。彼らは日本海側から太平洋側までの南北を測量できるほどの科学力をもっていたのか。それは次の第二部で検証していくことにしよう。