ザ・イヤー・オブ・1981(その262)
添削やコメントが書かれた卒論のラフドラを返してもらったときに、小玉先生からは今までになく褒めてくれたことを覚えています。何しろいつもCしか取れない駄目学生でしたから、駄目学生にしては上出来な卒論だったようです。 私が書いたフランス語もまずまずだったらしく、「誰かに添削してもらったのか」と聞かれました。私が誰にも相談せずに辞書と格闘して書いたというと、少し驚いていました。まあ、イギリスでも随分しごかれましたからね。その際はずいぶんと、フランス人の留学生に手伝ってもらいました。 最終的にいつが卒論の提出期限だったかは忘れましたが、コメントを参考にしながら若干の修正を加えて、期限内にタイプして卒論を完成させました。 それがこちら。 ハードカバーですね。ICUの図書館に一部、私の手元に一部。世界で二部しかない私の卒論です。タイトルは、“La Notion de Jeu et de Partie dans le Théâtre de Samuel Beckett”(サミュエル・ベケットの演劇におけるゲームとプレイの概念)です。 出だしだけご紹介しましょう。 1 Introduction: Tout est un jeu et la vie aussi.(序章:すべてはゲーム。人生もまた同じ) On dit que les pièsces de théâtre de Samuel Beckett sont souvent trop difficiles à comprendre. Les uns dissent qu’elles sont peu communes ou plutôt anormales, donc incompréhensibles. Les autres dissent qu’il est simplement un peu fou d’écrire de pièsces si enigmatiques. (サミュエル・ベケットの戯曲は、理解するのが難しいとよく言われる。ある人は少し平凡でつまらない、あるいは異常すぎる、だから理解されないのだという。また、このような謎めいた劇作品を書くこと自体が間違っているのだという人もいる ) Elles sont certainement difficiles à comprendre au point de vue du théâtre traditionnel qui a la bonté de nous fournir des histoires (une intrigue, un point culminant, etc…) et un jugemnet moral aussi. Dans les pièsces de Beckett, les personnages n’ont pas de but ordinaire ni de mobile. On ne peut pas être sûr de ce qu’ils font et ni comprendre pourquoi ils agissent. Mais si nous considérons les pièsces de Beckett comme des jeux purs tels que les jeux de’échecs, de tennis, de football et ainsi de suite, il ne’est plus nécessaire pour ses pièsces d’avoir une intrigue, des mobiles, des jugements moraux, et un point culminant. なるほど。結構面白い書き出しですね。この程度のフランス語なら私でも読めます(笑)。幸い、この論文の最後には和文抄訳が付いていますから、次回はそちらをご紹介しましょう。 (続く)