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カテゴリ:知の構造、地の構造
トラックバックするけれど、「鏡像段階」はある種の狂気を含むんだね。
『人は自分でないもの(鏡)を見て、自分を確信する』 そのために、鏡像段階では 【幼児は仲間が転ぶと自分が転んだつもりになって泣き出し、仲間を殴っておいて、自分が殴られたと訴え出る。べつに嘘をついているわけではない。「私」の鏡像と自分の相貌と似た他の子どもを識別できず、他者に想像的に同一化してしまう】 ということが起きる。 トラックバックした日記と重複するかもしれないけれど、自分でないものを自分と誤認する、というところから神概念が生まれているような気がする。 よく『人には仏性がある』っていうでしょ? ようちゃん2号、人に仏性があることは否定しないのね。 でもね、物だとかにも神性が含まれていると感じるのは、ありていに言っちゃうと、「【他者に創造的に同一化】してしまった結果」と言える気がする。 問題は、順番が逆転しているように思えるところ…。 「物に神性が含まれているからそれを感じるのではなくて、他者との境がなくて同一化してしまった経験なり体験を人それぞれが持つから、物に神性が含まれていると信じる」というのが、ちゃんとした順番のような気がする。 同一化を人は経験として持っているのに、そのことはなぜか隠されてしまうんだね。 たぶん無神論を唱える人でも、神概念は持っている。 それどころか神概念がない人に無神論は唱えられないと思う。 ようちゃん2号的には「人はなぜみんな、神概念を持っているのか?」ということに不思議さがあって、それを解明しようとすると、「鏡像段階」が出てくるのかな?って、そういう感じ…。 神概念を持っているのに、無神論を唱えるのは、この逆順に気がついているからかもしれない。 そこまで考えて無神論を唱えている人がどの程度いるのかはわからんが…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年06月23日 10時19分07秒
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