親が自分を親と思うことによる(よってだけの)真理。
ちょっとこのごろ、自分の中に文章があふれかえっている感じではあるのね。人の書いた文章で、自分にとって重要だと思えるものが、ここに来て急に多くなってきているということだよ。そういう、気になっている文章を、なるべく書きとめておきたい。そうしておきさえすれば、ようちゃん2号がこの日記で普段よくやっているように、トラックバックなどで、文章というか思考をつなげられる…。前回の日記で、親にとっての真理っていうことを少し書いた。これ、少し説明が足りないと思う。それを説明するのにいい文章だと思うので、まずは真理について書かれたものを引用していく。以下↓引用。(『現代思想のパフォーマンス』ミッシェル・フーコー 難波江 和英 著)------------------------------------------- ここで権力と関連して、フーコーの真理の概念についても考えておこう。フーコーが「真理」と呼ぶものも、一般の定義とちがって、森羅万象の根源でもなければ究極の真実でもない。彼の表現によれば、真理とは「歴史の中で長らく焼かれて、かたちを変えられないほど固くなっているので、もはや論駁できない種類の誤謬」のことである。たとえて言えば、年をとって、心身ともに柔軟性を失ってしまっているのに、自分は「正しい」と信じ込んでいる堅物の老人、そうした存在や信念が「真理」にあたる。ニーチェの表現を借りれば、「それなくしては、ある種の生物が生きていけなくなる種類の誤謬」、それが「真理」である。-------------------------------------------以上↑引用。先日の日記で、【親が自明の真理だと思われることを子どもに押し付けても】と書いた、「真理」っていうのはこの引用した文章で説明される真理なの。では、親はどういう場面でこういう真理を持ち出すかな?…ってのが、以下↓引用。(同上)------------------------------------------- たとえば、親子が子どもの結婚問題でもめているケースである。親は子どもに向かって、「親のことを聞いておけばまちがいない!」と叫んでいる。しかし子どもには、その発言が正しいとは思えない。それどころか、子どもには、親の表現そのものが、これまでどこかで耳にしてきたレトリックのコピーのように聞こえる。-------------------------------------------以上↑引用。…ありそげでしょ?実際、ようちゃん2号、まだ日記に書いたことはないけれど、22歳くらいのとき、韓国の女性と結婚しかかったことがある。(向こうがどこまで本気だったのか今となっては確かめようもないけれど…。こっちが舞い上がっていただけ…かも…。)そのとき、親から「親のことを聞いておけばまちがいない!」とは言われなかったけれど、「朝鮮人と…」って言われた。(びっくりでしょう?…よくわかっているよ…、このときに使われた文脈の通り。…差別用語だよね。でも、書かないと伝えられないことってあると思う。…それを親に言われたの)…続ける。以下↓引用。------------------------------------------- それもそのはずだろう。この親の発言は、親が子どものことを思って考え抜いた自分のことばから構成されたものではなく、いつだれからともなく親の身体に刷り込まれた決まり文句なのだから。しかしここで大切なのは、親の発言に正当性があるかどうかではなく、どのようにして親が自分自身を正当化しているかである。-------------------------------------------以上↑引用。母の生まれは満州。(こんなこと書いても、それがどういうことか若い人はうまく捉えきれないかもしれない。そして、自分もそれがどういうことなのか、どこまでわかっているかは自信はないよ。)引揚者。引揚者ではあるけれど、とりあえず、というか、日本人。だからこそ、なのかな…?かえって差別意識が強いってことかもしれない。(びっくりして、それでかえって冷静になったかな?親に差別意識があるなんて、それまで思ったことがなかったからね。…もう20年以上前、そして自分がその当時、二十歳を過ぎて初めて知ったことだよ。)…続ける。以下↓引用。------------------------------------------- このケースでは、親が「親である」ことだけを根拠にして、自分の「正しさ」を主張している。それが、親の世代にとっての「真理」の作り方だったのである。他方、子供の世代は、この「真理」のつくり方を共有していないので、親の発言に信憑性を感じられない。おそらく子供はそこに、親の保身術や自己愛(親は子供を愛していると言いながら、結局、自分の価値観しか愛していないこと)を見て取るだろう。-------------------------------------------以上↑引用。俺、まさにそれ、だったな。(「日本人であることがそんなに偉いの?」って感じ…。「そんなに大切なことなんかい?」ってね。「そんなもん、自分の都合でしょ?」ってね。)以下↓引用。------------------------------------------- この対立からも、真理とは、だれにでも通用する万能の規範ではなく、何らかの根拠によって、そのたびごとに形成されるものであることがわかる。しかしこれはなにも、真理がウソであること存在しないという意味ではない。ある真理は、それなりの真理として成立しているのであり、それを否定する別の根拠がないかぎり、それは真理として存続する。-------------------------------------------以上↑引用。結局、そのときは親の真理ってのに負けちゃったかな?若気の至り、って言えばその通りなんだけれどね。論駁する根拠なんて、自分、その当時持っていなかったもの。以下↓引用。------------------------------------------- 先ほどの例で言えば、親の「真理」を否定するには、二つの方法が考えられる。ひとつは、親の「真理」の根拠(親であること)をあばくこと、つまり、その根拠が同語反復・自己言及・ひとりごとにしかなっていない点を指摘すること(親は正しい、なぜなら親だから)。もうひとつは、別の根拠から構成された別の「真理」を対案として示すこと。たとえば、「婚姻は両性の合意のみにもとづいて成立」するという憲法二十四条第一項である(ただしここには、同性愛者を排除する「権力」がはたらいている)。-------------------------------------------以上↑引用。繰り返すけれど、論駁する根拠ってその当時、持っていなかった。根拠自体はあったかもしれないけれど、親にわかるように言うなんてこと及びもつかなかった。いまでもうちの親、そのおかしさをわからんで、自分の真理を同語反復しているよ。(【親は正しい、なぜなら親だから】ってね。)以下↓引用。------------------------------------------- フーコーの関心は、真理の否定でも相対化でもなく、ある時代の、ある社会で、なんらかの考え方が、どのようにして「真理」として形成されるにいたったのか、そしてまた、どのようにしてそれを「真理」として受け入れる主体が形成されるにいたったのか、そのプロセスを権力との関係からあきらかにすることである。 たとえば、日本の社会では、どのようにして「親の言うことを聞いておけばまちがいない」という発言が真理として形成されてきたのか、そしてまた、どのようにしてそれを真理として受け入れる主体(親)が形成されてきたのか、その経緯を日本の社会をつくりあげてきた権力のはたらきとの関係からあきらかにすることである。-------------------------------------------以上↑引用。…えーと、結論はなんだろう?「親だから正しい、なぜならそれは親の言うことだから…。」ってのの誤謬を、感知できない親が今、増えている感じがする、ってことかな?感知しないのにそれを放っておいて「やり方」を押し付けるってのが、今、「真理」としてはびこっている感じがする。