神指城
最近知ったことです。江戸時代の前に会津に移ってきた上杉景勝は新たな城の建設をしていたとか。その名は「神指城(こうざしじょう)」と言うのだそうな。 一度訪ねてみたいと思っていました。場所を検索して行ってみると、ナビから何もない田園風景が広がるだけの地域に案内された。途中まであった案内板が、目的地周辺だと思われる道路には一つもなく、時々途方に暮れて、???見渡す限り何もなく、どこへ行って良いやら、、、ウロウロ、、ウロウロウロ、、資料1:本丸と二の丸からなる「回」字形の輪郭式平城で、面積は本丸56,000平方メートル、二の丸を含む全域では500,000平方メートルあり、若松城の約2倍の規模であった。城の鬼門に位置する「高瀬のケヤキ」(現存)と北極星を基点に縄張りしたと伝えられる。舗装されてない田んぼ道を徘徊してたら、、、城跡っぽい場所が、、、んっ?ゴミ捨て場?何と!荒れ果てた土手の上の案内棒に「神指城天守閣予定地」と書かれているではありませんか。城跡とは程遠い風景がそこにありました。悲しすぎる風景です。近くにあった案内板です。(画像をクリックすると大きくなります)資料2:慶長3年(1598年)に会津へ移封された上杉景勝は、会津盆地の東南隅に位置する若松城は拡張が難しいと判断し慶長5年(1600年)2月に盆地中央で阿賀川畔の神指ヶ原に新たな城の建設を家老・直江兼続に命じた。兼続は弟の大国実頼を作事奉行とし、慶長5年3月18日(1600年5月1日)から築城を開始した(本丸工事)。神指ヶ原の13ヶ村を強制的に移住させ、領内から12万人(8万人説あり)を動員、二の丸工事は5月10日(6月20日)に始まり、6月1日(7月11日)に石垣、土塁、堀、門、などを完成させたが、天守着工前に徳川家康の会津征伐により6月10日(7月20日)で工事は中断する。以後、築城関係の工事は会津征伐軍の途上にある白河城の修築が優先された、関ヶ原の戦いの後、慶長6年8月に上杉景勝は米沢へ移封となり、完成を待たずして神指城は破却され、寛永16年(1639年)、藩主・加藤明成が石垣を全て若松城へ運び去った。も少し整備されていると思いました。一部はゴミの不法投棄場所となっていました。城跡といえば城跡となるのでしょうが、築城工事の痕跡があるというだけの場所のようです。ちょっと残念でした。 まっ、興味のある方は行ってみて下さい。