ソウルを持った氷上のPURIST安藤美姫、いつの日かミキティーからLADYMIKIに!!! 第三章
第三章 フィギュアを繊細にそして純粋に愛す少女美姫chanの2005年度のフリーの課題曲 マイ ファニー バレンタインは言わずと知れた往年のジャズの名曲だ。1937年のミュージカル『Babes in arms』に使われた曲で、舞台ではミッツィ・グリーMitzi Green が歌い、また'39年のMGM映画『Babes in arms』ではジュディ・ガーランドが歌った。1955年に映画化されたミュージカル「ジェントルメン・マリー・ブルーネット」(1937年作)のナンバーでもあり以後も多くの歌手に歌い継がれていて、私がジャズを聞くきっかけになり聞けなるほどの曲を歌ったあのレディ・デイことビリーホリディーも歌っている.ところでジャズの起源をご存知だろうか?!アメリカの黒人奴隷によって生み出されたブルースが、南北戦争へて奴隷制廃止後も続いた黒人差別社会の中で変化して生まれてものだ.その後マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、通称キング牧師によるあのI Have a Dreamの演説で有名なワシントン大行進などの公民権運動で黒人差別は激減しそれと同調するようにジャズは一般的な音楽のジャンルのひとつとして発展していく。しかしマイ ファニー バレンタインが生まれヒットした時代はまさに黒人差別の真っ只中で特にそのような社会で生きてきた黒人ミュージシャンの音楽は曲のテーマを越えてソウル(魂)の叫びとして世界中のJAZZファンに衝撃を与え絶賛されている.つまりマイ ファニー バレンタインは日本でいえば戦後の混乱の中で美空ひばりのような歌手や米軍キャンプ巡りのミュージシャンなどによって歌い継がれた曲のようなものだ。はっきりいえば平和で幸福に暮す日本の女子高校生がテーマ曲としていや、おおげさに言えば音楽のジャンルとして扱うのは絶対不可能なのだ。例えば、女王ミキ・マイズナーやサーシャ・コーエンが"赤いりんご"をテーマ曲にした時の違和感を想像するのは容易であろう。だから初めてマイ ファニーを美姫chanを扱うと聞いた時はさすがに美姫chanの大ファンであるまえに一ジャズファンとしてあきれてしまった。キャロルのことも話題になっていたが何か戦略があるのかそれともやはり単にモビーディックのエイハブ船長のような無謀なチャレンジャーなのか疑問をもった。たしかにジャパンチャレンジもロシアカップもそれなりにフリーをこなし戦メリのファイブコンポーメンツのオール七点台に見られるように演技力も高まり芸術性も増していた。特にロシアカップの戦メリのあの少女の初恋を想像させる初々しい爽やかな舞は、あれはあれで美姫chanらしくていいなとも思った。だがJAZZファンにとってはマイ ファニーを使うのならそれだけでは単にお嬢さんの背伸びで逆にみすぼらしいのだ。NHKでも精彩を欠いていたし何も五輪選考の年にこんなテクニカルな曲を使う必要はないのになと思ったものだ。そしてGPファイナル、あの悲劇が起きてしまう。私も中継で足を引きずりながら会場入りする美姫chanに大丈夫?と思ったが話題にならなかったので気のせいとあの骨折発表までは思っていた。フリー演技、はじめの三回転の連続ジャンプでいきなり転倒、そして無念の三回転サルコウ。これまでの美姫chanならここでモチベーションが下がっていただろう。しかしこの後のダブルアクセル、3-2連続ジャンプ、そしてスピンと非常に丁寧な心のこもった演技をしたなと思ったのは私だけだろうか?!もちろん五輪の出場権がかかっていたこともあると思うがこの頃、美姫chanが時々口にした、ジャンプに失敗しても表現力でついていこうと思えるという.表現力へのこだわりと自信が心の支えになっていたのかもしれない。だがここで二度目のジャンプでの転倒、痛み止めで着地の感覚が麻痺しているとはいえ、これでこの試合は事実上終わりを告げ五輪の出場権がお預けになったのは美姫chan自身が一番感じていたに違いなく、一瞬諦めかけたしぐさを見せる。が応援の声援にすぐに我にかえりストレートステップシークエンス。その瞬間から、私は自分の眼を疑った。女子高生がしかもあの泣虫美姫chanがこれほどの悲壮感、または曲のテーマでもある求愛心をリンクいっぱいに漂わすとは。技術レベルでは低レベルでポイントも低かったのかもしれないし、美姫chanへの同情心がそう見せただけという人も少なくないだろう。なによりマイ ファニーを十分生かした大人の演技とはまだ到底言えるものではないがしかし、初めて美姫chanがスケートへのあこがれの恋ではなく心からの求愛を見せた瞬間だったのではないだろうか?!この年、美姫chanが必ず口にした「色々あって嫌いになったスケートがキャロルとの出会いでまた大好きになった、せっかく好きになったスケートだからキャロルのような素敵な笑顔で滑りたい!!」という言葉。もう結果は眼に見え、そして怪我で満足に舞えない今の自分、mikiにとって大好きなスケートそして何より大切なスケートだから、そのスケートにmikiは何を伝え何ができるだろうか?!過去の栄光と挫折の日々の中から何かを本当に愛するとはどういうものなのか美姫chanなりに答えを出し始めたのだろう。採点でもその進化ははっきりと出ていた。なんと三度の転倒にもかかわらずスケーティングで7点台をGET。NHKとGPファイナルの4回の演技中で一番派手に転倒を繰り返したにもかかわらず唯一のプログラムコンポーメンツでの7点台。この娘が本格的に大人の演技を身に付けたらどんなマイ ファニーを舞うのだろうかと想像しただけでもわくわくせずにはいられなかった。そしてあの全日本選手権大会、私の感想から言えば芸術点では決して他の選手には負けてはいなかったように思う。ただ日本人の求める芸術性はわびさびといった日本人独特のものがあり、村主のような雑念を捨て心を無にした気迫あふれるもの、悪くいえばがちがちの肩のこる芸術を良しとされているところがあるので、繊細で純粋な思いを素直に表現する美姫chanのような選手は日本人審判には芸術点では不利なのだろう。その証拠に村主に対してあのNHKではシングルでは完勝、フリーでは転倒の減点でテクニカルコンポーメンツと合計で負けはいたが芸術点では53.68の同点だった。まあ結果はどうあれこの大会でも美姫chanの表現力の進歩は確実に現れる。どうすれば自分自身、悔いを残さず応援してくれるみんなに喜んでもらえるのか?五輪代表選考を前にして、負傷し思いどおりのスケートが出来ない不安な状態の中で思い悩み、眠れぬ夜が続くクリスマスウィーク。そして出た答えは、綾香のI believeの自分を信じようのメッセージに導かれての、自然に笑顔がこぼれる自分らしさへのこだわりの演技。結果の為のスケートではなく、自分の思いを込めたスケートをすれば、おのずと結果がついてくることを信じて。結果は六位惨敗。確かに結果だけ見れば美姫chanは批判の対象になるのも仕方がないのかもしれない。しかしあの美姫chanの笑顔の演技の中に自分らしさへのこだわりを感じとった人間なら結果など意味をなさないだろう。少なくても私は、あそこまで自分自身の哲学(こだわり)をもってフィギュアを愛しそれゆえに往年ジャズのスタンダードバラードを不完全ながらもあそこまで形して扱うことができる女子高校生、安藤美姫選手はいつの日か、必ずとんでもないソウルを表現できる最高の演技者になれると確信が持てたクリスマスウィークとなった。この章の最後に私が感動した美姫chanコメントを一つ「(振付師のデビット・ウィルソンに)僕はただ振り付けをするだけ、後はmikiの気持ちから滑るんでしょう」と言われて戸惑った。でも自分の気持ちに素直なればその気持ちどうりの演技になる、本当の自分が演技の中にいることができる、そしていつか心に残るスケーターになりたい。~ がんばれ美姫chan STAY GOLD and I believe myself ~ P・S 美姫chan、自己ベスト63・57点おめでとう!!!三回転の連続ジャンプを組みいれていれば65点以上も夢ではない。 表現力もステップワークも滑り込んでいけば後は良くなっていくだけなので軽いフットワークを維持してがんばれ!!! そしてめざせ世界選手権出場!!!補足(黒人差別について)黒人差別の深刻さ、つまり黒人ミュージシャンのソウル(魂)の叫びの起源はビリーホリディーの人生から十分に感じ取れることができる。当時の黒人社会はその日暮らしができる収入があれば幸せのほうだった。生活に十分な収入を得る為には麻薬などの密売関係の仕事や売春関係の仕事など今では完全に違法とされる仕事に関わるしかなかった。母子家庭だったビリーの母親も売春婦だったが、幼くして強姦された彼女は黒人少女という理由で売春の疑いをかけられ感化院に送られる。その後、売春婦に身を落とした彼女だったが逮捕され、無一文で住むところも追い立てられる状況の中で偶然が重なりクラブ歌手としてデビューをする。背水の思いで望んだ初舞台では、"Body & Soul"を唄う彼女に観客は皆涙したと言われている。しかしプロデビューを果たした彼女に他の黒人ミュージシャン同様、アメリカ南部の州でジム・クロウ法(黒人の一般施設利用を制限)の壁が立ちはかる。白人女性歌手の代役を立てられ唄うことが出来なかったばかりか、他のアーティーショウ楽団員と一緒のホテルを予約することも、更にはレストランに入ることすらも出来なかったのである。そしてそのジム・クロウ法は、彼女の父親の命をも奪うこととなる。南部の街、テキサス州ダラスで病で倒れた彼を、黒人という理由で何処の病院も診療を拒絶し閉め出した。その為に彼は非業の死を遂げてしまう。Strange Fruit(奇妙な果実)、私はビリーの歌うこの曲で生まれて初めて音楽で涙を流した。そしてその余りにも絶望的なシャープな悲壮感に一番好きな曲の一つにも関わらずほとんど聞くことができずにいた。そのうちビリー自体の歌声にもそのような感覚を持ち始め、最後にはJAZZ自体に一定の距離を置くようになってしまった。話それたが奇妙な果実とは、今の日米では考えられないが、木にぶら下がる黒人の死体のことだ。当時の南部アメリカでは黒人をリンチにかけて首を縛り、木に吊るし火をつけて焼き殺すという蛮行がしばしば見られた。そのような現実をルイス・アレンが楽曲に仕上げビリーが歌い上げた、そうこの曲の歌詞にパパの死を重ねあわせて・・・もちろん白人社会からの圧迫もあり同じ黒人からも否定の意見もあったが彼女は歌い続け大ヒットを生むこととなる。だが人生とは残酷なものでこの頃から薬物で彼女を手なずけ彼女の収入をむしりとる男が入れ替わり彼女の周りに現れることとなる。もともとは薬物とは無縁ではなかった彼女だったが、その後は歌手活動にも支障をきたすほどの中毒になった。歌声も健康も害し、繰り返し逮捕され生涯最後のアルバムでの歌声はボロボロ、病で44年の短い生涯を終える。もっと皮肉なことはビリーが唯一の相続人である前夫(まだ離婚手続きは完了していなかった)に遺したのは1,345ドルであったが僅か6ヵ月後の1959年末には、彼女のレコードの印税は10万ドルに上った。ビリーが使った金額と、彼女が騙し取られた金額とのバランスすら黒人差別社会を軽蔑せずにはいられない。このような悲惨なビリーが最後に生んだのがLEFT ALONE(レフト アローン)だ。ビリーが晩年に作詞した歌にマル・ウオルドロンが曲を付けたものだが残念なことに彼女の歌声録音は残っていない。メロディーパートをアルトサックスのジャッキー・マクリーンが奏でたものが有名で私がJAZZを聞くきっかけともなった。一人ぼっちで去っていった・・・彼女のJAZZは最高のもので私も十二分に堪能させて頂いているがその裏に隠されたすざましい悲劇をどう受け止めてあげたら良いのか、この私の悩みはおそらく一生解決できないに違いない