楽しむということ
masataharaさんという医師の方のブログで、「囚人にダンスをさせて更生させている」という記事を読みました。罪を犯してしまった人、大半は弱さ故、結果的に人々に迷惑をかけてしまって投獄されてしまった人がほとんどなのではないのでしょうか...。何かに固執してしまい、それを追い求めて行く。その中で一線を越えてしまうと、そこから先は、一時の快楽に似た感情は得られるのでしょうが、良心の呵責から逃れるすべはない。シートベルト一つをとっても、若かりし頃の私はシートベルト一つをとっても、体をロックさせられることが窮屈に思えたものでした。今思えば「なぜ?」と言えるようなものが、素直に聞けない時期は誰にでもあったのではないのでしょうか。罪を何度も何度も繰り返していくこと。そのことが世の中では悪いことのように掻き立てられておりますが、ルールをいいものとも悪いものとも感じずに、ただ、ルールとして受け入れられるかどうか。そのことが一番、大切なような気がします。私の息子はユダヤ教徒なので、生後間もなく割礼の儀式を行いました。私はユダヤ教徒ではないので、メスを入れられる息子がかわいそうな気もしましたが、そういったしきたりをずっと守ってきていることに対して客観的に見ておりました。日本にある馬鹿ルールと言っては語弊があるかもしれませんが、あってもなくてもいいようなルール。イスラエルにもあってもなくてもいいようなルール。どの国にも意味を考えると、疑問を抱いてしまうようなルールというものが存在しているのだと思います。それがいいとか悪いとか、そんなことを考える必要はなく、ただ、あるルールや規制の中で楽しめるかどうか、そんなことの方がよっぽど、人生を楽しむ上では必要なことなのかもしれないなぁ,,,。そんな風に感じます。日本にいる頃、アクロバットが自然と出来てしまった私はブラジルのカポエイラという格闘技団体の先生からスカウトを受けたことがあります。カポエイラとは、ポルトガルの植民地時代の奴隷達が看守の目を盗んでダンスをして遊んでいるように見えるように鍛錬したものが発展して出来た格闘技だそうです。弾圧や押さえつけだけで、国民が国や政府に対して従い愛国心を持てるかどうか。どんなルールでもそこに楽しさというものが含まれていないと、ただ、つらくきついものに感じられてしまう。問題はそれがいいものであれ、悪いものであれ聞けない状態にしてしまっていることにあるのだと思います。ネガティブな子供達や大人を作り出してしまう可能性についても、考えていかなければ、一億人以上が暮らす島国日本という母体で、10%の人たちがネガティブになってしまうとすると、単純計算で一千万人の方達が国に批判的になってしまうということになります。一千万人の方達をどの様に封じ込められるというのでしょうか...。もっと、一人一人が勝手気ままにわがまま、傲慢になるのではなく、学ぶ、尊ぶ楽しさというものを考えていかなければいけないと、私は強く願います。一児の父になり、いかに、子供一人を楽しませながら学べる環境づくりというものが大変かということを痛感しております。国のトップは国の父のような存在...。出来の悪い子だと決めつけて、ネガティブにしてしまった自分の子供達をただ責め続けてしまうこと。それが親のすることであろうか。国民一人一人も親批判をしているだけでは、ただの世間知らずな子供でしかないこと。その事を踏まえて、一人一人が何を日々感じて成長していけるのか...そんなことが今、求められている気がします。私自身も過去の反省も踏まえて、もっともっと自尊心を高めていきたいと思います。お互い、今出来ることを精一杯、頑張りましょう!ガッツ!ランキングに参加しています。お手数ではありますがよろしければクリックをお願いします。「ジョーの心の旅路」人気blogランキングへ