地位名誉お金がひとところに集まる社会は負の社会
地位名誉お金がひとところに集まる社会は負の社会....今日の映像今日聴いた曲名をとるか、実を取るかといわれるくらいですから、本来は対極に位置しているはずなのですね。はずと書きましたのは、道徳心の乱れから理論が通用しない時代に突入してきているからです。例えば、私は経済学部を卒業しました。必修科目というのがあり、マルクスやエンゲルスは普通に学ぶ教材に含まれています。ただ、この理論とやらも人々が良心などの呵責に苛まれている状態での、慈愛あふれる社会の中で成り立つような理論なのです。どのみち私は勉強熱心ではなかったのでほとんど記憶に御座いませんが、その理論を元に経済をひもとかなければならないとすると、確実に裏や裏の裏をかかなければ理解のしようがないといった理論であったような裏覚えがあります。資本や原価計算などの計算方法に、納入する商品がまがい物であったり不良品であったり、納品されなかったり、商品を購入するのに支払う予定であった金銭のA社からの入金が滞った場合などといった、問題点などには一切触れていないところが理論としては美しいですが、現実的ではないです。納入先の業者がそもそも架空名義であったなどといった発想がない学問に、学生たちが目を輝かせながらのめり込むということはないのではないでしょうか。そんな気がします。世の中がよい悪いという前に、まず、想定し得る最悪の状態を思い描き、その上での解決策や対処方法の発想の新鮮味を競い合う世の中の方が、私は余程健康的だと感じますし、好感が持てます。八百屋に配達途中のバナナのケースを、近所の民家のペットであるお猿の万吉くんが食べてしまいました。飼い主の方が良い方であったので、バナナの支払いをしたいと申し出てくれました。さて、正直そうな紳士にキロあたりいくらで販売すれば、良いのでしょうか。こういった答えがあるようでないものが世の中の営み、教える側も教えられる側も、そういった意味でいろいろなディスカッションなどを繰り返し、双方、いかに楽しく学んでいけるのかを模索していくうえで、阻害になるものは頭の硬い官庁の方々が決める制限なのではなかろうか。いろんな問題を解決していくうえで、最も重要なのは、澄んだ目を養える社会づくりであり、家庭づくりであり、それを支える人間社会の営みではないのか。ぷぷぷと笑ったそこの御方、流石です。今日もよろしくお願いいたします。