死から始まる物語-鋼の錬金術師-
「ママ、もしもボクが死んじゃっても、人体錬成しちゃだめだよ。命は一つしかないから大事なんだからね!」 これが「鋼の錬金術師」を見た直後に六歳児が発した言葉である。命は生命と肉体と精神から成り立っている。人体錬成ができないのは、おなじ魂(精神)が二つとないからだ。そんな難しいことを易々と理解させる力を、このアニメは持っている。 第一話の人体錬成失敗のシーンは、かなりショッキングなものだったので、小さい子のいる家庭では、拒絶反応があり、賛否両論であった。私自身は当時六歳と九歳の子供がいた。だが、このアニメはむしろ見るべきだと感じた。目先のグロテスクさより、内容の深さに惹かれたからだ。 毎回見るたびに子供と内容について話し合い、その結果、子供なりにではあるが大半の内容を、子供は理解したと思われる。だから、自分の言葉で語ることができたのだ。 生命と肉体と心。全は一、一は全。 ”等価交換”というのが全体を貫く錬金術の考え方だ。魔法陣を書くことによって、元素を自在に別の物体に組み上げるのが錬金術だ。だが、物体そのものは、無から生まれるのではない。必ず等しい何物かを必要とする。人間の魂には等価交換できる何物もない。だから、人体は錬成できない。 そして、賢者の石。この石は不可能を可能にする。だが、賢者の石は、多くの命を贖って作り出される物だった。鎧の体を持つ弟は、生きながら賢者の石にされる。 このアニメは”死”を正面から取り上げる。不死のスーパーマンは登場しない。錬金術という特殊な能力を持つ人々が登場するが、それも死すべき普通の人間。スーパーマンではない。多くの”死”と、その”死”を悼む心。母親の私が泣くことで、子供は死が悲しい物であることを知る。そして、命が尊いことも。自分が生きていることが、ひとつの恩恵であることも知る。 この美しい世界に命はあふれている。その命の輝きを奪うことは罪なのだ。そんな当たり前のことが通じない現実世界。子供が犠牲になる事件のなんと多いことか。弱者である子供を殺す犯罪者は、この美しい世界を成り立たせるものが何であるか知らないのだ。自分が尊いから他人の命も尊い。そして他の生命も。それを知らずして世界を見れば、世界は混沌と矛盾に満ちた醜いものだろう。だが、その醜さは、そのまま己の醜さなのだ。 グロテスクな描写を、子供の世界から遠ざけようとする大人。しかし、子供はリアルの醜さの中に生きている。完全に隔離して生きていけないものなら、理解させる方がよほどいい。醜く悲しい現実を知ってなお、咲く花の美しさよ。 純粋培養では子供は育たない。ならば、アニメーションは格好の疑似体験だ。人の世のあわれと美しさを大人は語れ。正面からこの作品に向き合うとき、この作品はその豊かな実りを我々に与えるだろう。人気blogランキングに登録しています。