美学を捨てられるか -主義主張を捨てることから進歩が生まれる-
「柔道」というスポーツ競技がオリンピック種目になったのは、昭和39(1964)年第18回東京大会からです。日本で生まれた柔道が昭和39年の東京オリンピックで初めて正式競技になって以来半世紀近く、数多くのメダリストたちが誕生し、世間の話題になりました。子どもから一般社会人まで、競技者は幅広く分布し、当然、選抜された日本選手の層は厚く、レベルも高く、今年夏の北京オリンピックにおいても、メダル獲得は全階級において十分可能と期待されていました。しかし、いざ蓋を開けてみると、日本柔道男子は、7階級のうち、100kg超級の石井慧と66kg級の内柴正人がなんとか金メダルを得たものの、他にメダルを取った選手はありません。東京オリンピック以来、過去最低の結果となったのでした。日本で創始され、日本のお家芸とまで称されて来た「柔道」に、敢然と立ちはだかって来たのは、ヨーロッパを中心に広がる「JUDO(ジェイ ユー ディー オー)」でした。「JUDO」は、全世界に広まるにつれ、レスリングや民族格闘技等からも大きな影響を受け続けているようです。相手と全く組み合わずに直接足を狙うタックルや、相手の背中を掴んで力まかせにひっくり返したりする技は、日本では全く考えられません。そのうえ、相手に反則ポイントが与えられるよう仕掛けたり、判定勝ちを重視する戦法は、日本柔道とは明らかに異質のスポーツ競技と言わざるを得ないものです。日本の伝統である、美しい「一本勝ち」にこだわる戦法では、それらには全く対応出来なかったのです。ところで、戦国時代、野戦の変遷を考えてみると、個々の武将が名乗りをあげ合った「一対一」の闘いから、名も無き雑兵による「集団線」、「騎馬戦」、「鉄砲戦」、重量の思い武具甲冑から合理的な軽装へ、どんどん変化しました。このように、どんどん変化して行った戦闘体系を現代の目を通して、俯瞰すると、日本の「柔道」と世界の「JUDO」が、同じ現象のように重なって感じるかも知れません。100kg超級の石井慧は、敏感にそのことを感じ取ったひとりだったのです。「環境は変わって行くもの。その変化に柔らかく順応出来る者が勝つ」と信じ、日本伝統の美しい一本勝ちを敢えて押し殺し、ポイントで優る試合を重視して、見事に金メダルを取ったのでした。進化論を唱えた生物学者ダーウィンは、「It is not the strongest of the species that survive.最も強い者が生き残るのではなく、最も賢い者が生き延びるでもない。唯一生き残るのは、変化できる者である」という考えを示したと言われています。根底に基本を守る思想を重視することは大事ですが、既存のものにこだわり過ぎず、常に柔軟に変化出来る者だけが、より強い者よりも、より賢い者よりも生き残る可能性が高いということは、生物学的に言うところの真理なのかも知れません。<モーニングセミナー情報>平成20年10月8日(水)のモーニングセミナーは、下記アドレスに掲載しています。↓↓↓(9-1)地道な人々とのネットワークhttp://nitte.heteml.jp/rinripdf/pdf/h20-10-8-1.pdf(9-2)心ときめかせて -新居浜太鼓祭り特集-http://nitte.heteml.jp/rinripdf/pdf/h20-10-8-2.pdfA3 PDFファイルです。参考にして下さい。