子供を信じる
さてとぉ、日記でも書くかぁ。ひとの悪口書きたい気分なんだけど、どうしようかな。よし、まず、あだ名を決めよう。エゴバカだ。エゴバカの脳みそは縦割りになってて、ちがうセクションに入った同質の情報がどういう判断になるかは各セクションのご都合によってきまる。合理的に考えて同じ結果になるべき問題も、エゴバカの脳みそを通すと当然のごとく180度違う答えが出てくる。たとえば、ゴミを道に捨てるという行為。同じ場所に同じものを捨てるにしても、通常はダメだと判断しても、自分なら仕方ないという判断できる。不思議とその判断に矛盾は感じないらしい。ま、どーでもいいんだけどね。オレならその自己矛盾に苦しむだろうな。つーか、強烈な自己嫌悪に陥るだろうなぁ。と、哀れに思ったり。あ、そうそう。「内面ナルシスト」を書いてからつらつら思ってて銀魂の神楽と海坊主のはなし。あの、銀さんがさ「神楽を信じる」云々言うでしょ。あれは、まぁ、人格の独立性を認めるとか、自立性を認めるとかっていう意味だと思おう。親が与えたものではなく、親もまたその親から受け継いできて、そして同じように彼らに受け渡していった、ひとりひとりの自身の生命力というか、存在力というか。あのぉ、ま、オレにも息子がひとり、ふたりいるわけですよ。彼らを信じる?彼らの力を信じる・・・。と、ここでなにか「力」とか「能力」って考えちゃうと、そりゃ親的には彼らの足らないところをずっと見てくるわけだから、口では長所云々つったって、そこを信じるには程遠いぜ、となっちまう。でも、生命力を信じるというなら、それなら出来そうだ。生き抜いていこうとする力。成長していこうとする力。好奇心。探究心。彼らがたんまりとそれを持っていることを知っている。そこから、この信じる気持ちを自分の中にどうにか表現できる形に持っていけば、彼らとのコミュニケーションも多少は変わるだろうか。そこから、子供を信じる、といいえるようになっていかないかな・・・。そういえば、オレ自信が両親に欲してたもの・・・そりゃ、信頼だったような気が・・・する。でもなぁ、子供を信じるって難しい。判断力とかに信頼をおくわけにはかないもんなぁ。親が子供を信じるって、仕事のパートナーの能力を査定するのとは違うよね。ていうか、この話題の頭が人の悪口ってどうよ。