追っかけ日記 NO.129-銕仙会4月定期公演ー
昨日は、宝生能楽堂に、「銕仙会4月定期公演」を観にまいりました。 昨日の演目は、狂言「泣尼(なきあま)」、能「西行桜(さいぎょうざくら)」。 狂言「泣尼」。親の供養のためにと御堂を建立した田舎者(高野和憲)は、都の僧(野村萬斎)に説教をたのみます。お布施の額が高額であることを知った僧は、何としてでも行きたいのだが、説教が下手。そこで何にでも泣いて、それなりに盛り立ててくれる泣尼(石田幸雄)に会い、分け前を与えるからと一緒にくるように約束します。 田舎の御堂で説教が始まりと、泣尼は、早速に居眠りを始めます。あせった僧は、高座から咳払いをしたり、法談にからめて何とか起こそうとしますが、ついに尼は横になって寝てしまいます。法談の終わりを告げる鐘の音でようやく目を覚まします。 帰り道、尼は僧に今日の説法はとても有難いものだったと涙をこぼし、分け前を要求します。が、もちろん、僧が払うわけがありません。そこでひと悶着。 昔は、鎮魂を所業とする泣き女は重要な存在だったそうですが、この頃には、金で嘘泣きする虚偽の存在に変わっていったとか。しかし、いつもながら、お尻プリプリの可愛い尼さんでした。 能「西行桜」。京都、西山に隠棲する西行(ワキ・森常好)の庵室。春ごとにここは見事な桜の花にひかれ貴賤群集が訪ねて来ます。西行は思う所があって今年はここでの花見禁制を召使い(アイ・深田博治)に申しつける。しかし都の人々は例年通り春に浮かれ、この西山に花見のために押しかけます。 西行は一人花を愛で、心を澄ましています。 花見人たち(ワキツレ・殿田謙吉)が案内を乞う。静かな観想の時を破られた西行は、しかし、遙々訪ね来た人々の志に感じ、庵の戸を開かせます。世を捨てたとはいえ、この世の他には棲家はない、どうして隠れたままでいられようかと内省し、「花見んと群れつつ人の来るのみぞあたら桜の咎にはありける」と詠ずます。西行は人々とともに夜すがら桜を眺め明かそうと木陰に休らいます。 その夢に老桜の精(シテ・観世銕之丞)が現れる。埋もれ木の人に知られぬ身となってはいるが、心には未だ花やかさが残るといい、先程の西行の歌を詠じ、厭わしいと思うのも人の心であり、非情無心の草木に咎はないと西行を諭します。老桜の精は桜の名所を数えあげ、春の夜のひとときを惜しみ、閑寂なる舞を寂び寂びと舞う。 やがて花影が仄かに白むうちにも西行の夢は覚め、老桜の姿は消え失せ、老木の桜が薄明かりのなかにひそやかに息づいているのでした。 この能は、世阿弥の追求する「花」の終着点とも言える「老体の花」を表した名作と言われるもの。一度は拝見したいと思っておりました。先週に引き続き、観世銕之丞さんの舞が見られたことが幸運でした。 この会は、毎回、チケットは当日受け取りのため、どのお席になるのかわからないのですが、昨日は2列目舞台に向かって右よりのお席でした。ので、萬斎さんと向かい合うことが多く、でした。僧のお姿も相変らず、ステキでした。