高齢者の精神
何度も書いていることだが、お父さんの父親は現在83歳になっている。さすがに人間80歳を越えるといろいろと不具合が出てくる。お父さんも自分が長生きすればこのようになるのだろうと思いながら見ているが、自分が父親と同じように老化した姿を思うと少し怖くなる。 よく言われるように、父親も最近の事は記憶から消えて、昔の話をすることが多い。同じ話を何度もしてくるのはずいぶん前からだが、父親が子供の頃の話や若い頃の話が圧倒的に増えている。 そして自分が若い頃に比べて、お前たちはダメだという話になることが多い。 善意に解釈すれば、人生で得た教訓や経験を子供達に残していきたいようにも見える。子供の幸せを願ってあえて苦言を呈しているのかもしれない。 だが最近お父さんは、ひょっとしたら別の思いもあるのではと思い始めた。 例外はあるかもしれないが、80歳を越えて新しいことを成し遂げることはかなり難しい。すでに気力も体力も少なくなり、現役を退いて10年以上が経っている。やりたいことや成りたい職業があったとしても、今からではと考えることがほとんどだろうと思う。 そうしたときに、人間は「過去の自分の人生を至高のモノにしよう」と考えるのかもしれない。 意識してやっているわけでは無いと思うが、まだ父親が若い頃に「失敗談」として聞いた話が、いつのまにか「それがあったからこそ成功した」という「成功談」に切り替わっていることが多くなってきた。内容も昔聞いた話から脚色され、以下に自分が優れた判断と行動をしてきたかという自慢話が多くなっている。未来を変えるのをあきらめると、過去を美化するように意識が変化するのかもしれない。 人間は自分に価値がないと思うと生きるのがつらくなる生き物だと思うので、こういう意識の変化が起こることは不思議ではないだろう。人によっては家族にわがままを言い、それがかなえられることによって「自分もまだ権力を持っている」と思いたいのではと、同じように高齢の親を持つ同僚が言っていたが、それも一理あるだろう。 ただ父親の話を聞いていて、自分が親の古い価値観に従わず自分で判断してきたからよかったとか、先輩や上司の古い考えに苦労したという話が出てくると、「あなたが今まさにそれをやっているのでは」と言いたくなって仕方がない。まあ言ったところで「自分の場合は違う」と言われるだけだろし、認めれば「自分が老害として扱われている」と落ち込んでしまうので、この先も言うことはないだろうが。 長生きを願う人は多く、お父さんもその一人であるが、長生きすることが必ずしも幸せとは限らないと最近はときどき思うようになってきている。