水谷啓二先生の功績
生活の発見会の森田理論学習の歴史をひも解くと、そのルーツは水谷啓二先生の啓心会にある。水谷先生は共同通信社に勤めておられた1956年(昭和31年)10月1日、森田療法の普及と神経質者の互助を目的とした啓心会をスタートさせた。水谷先生の東京練馬の自宅で隔月の第2日曜日に例会が開かれた。出席者は毎回50名を超えていた。会合は講話、質疑応答、自己紹介、助言で構成されていた。これが生活の発見会が行っている集談会の原型である。翌昭和32年10月1日には「生活の発見」を創刊している。当時は季刊(1,4,7,10月)で、32ページだった。発行満4年目から隔月刊で60ページとなった。昭和36年10月には月刊誌となった。昭和34年7月、自宅を開放して「啓心寮」を開設した。入院森田療法を始めたのである。これには「医療まがいの行為をする」と医師たちの猛烈な反発があった。慈恵医大の高良武久教授の仲介により医師の派遣によりなんとか開設にこぎつけている。これは森田先生の入院森田療法の忠実な再現であった。10年経過した時点で啓心会会員は2000名以上。啓心寮への入寮者は常時20名以上であった。次に水谷先生は森田理論を全国に広げてゆきたいと思うようになりました。その構想は「日本中和生活研究会」と名づけておられた。しかしこれは実現することなく水谷先生は58歳という若さで亡くなられた。森田療法がもし医療の場に限定されていたとしたら、一般の神経質者に森田理論が認知されることはなかったであろう。森田先生の死後、その傾向があったのです。その突破口となったのが水谷先生の功績である。特筆すべき偉大な功績である。それが長谷川先生や斎藤先生の森田理論学習運動の全国展開へとつながった。つまり生活の発見会の集団学習運動の始まりであった。これは森田理論学習の新たな夜明けであった。しかし残念なことに、日本ではそれを引き継いで、さらに人間再教育の面まで活動を押し上げていく人は現れたとは言い難い。もし現れたとすれば新たな枠組み、方法によって一般国民においてもその恩恵に浴していたはずである。しかし森田理論は、メンタルヘルス記念財団の岡本常男さんの活動で意外な展開を見せた。中国をはじめ森田理論が全世界に広がってきたのである。森田先生はドイツで自説が全く受け入れられないことに落胆しておられました。時代が変わり、今や国際森田療法学会も開催されるようになりました。森田先生や水谷先生は今の状況を見てどう感じられるだろうか。この次の森田理論学習の展開をどのように提案されるだろうか。興味は尽きない。しかしこれは森田の恩恵を十分に受けてきた我々が提案してゆくべき問題である。