隠し事をしないということ
島田紳助さんのある番組にお父さんがオカマであるという家族が登場した。そのお父さんには6人の子供がいた。島田紳助さんはその家族の日常を撮影したVTRを見て、次のように言った。「子供たちに感動した。ちょっと小汚いオヤジをもつ子どもたちは、普通はお父さんを友達に見せないんですよ。そんな家が多いのに、こんな爆弾みたいなオヤジを抱えた子どもたちが、親父と一緒にテレビに出る。しかもお父さんのことが大好きだという。(一家の長男に向かって)長男、普通の家庭なら、家に友達を呼ばない。キミはそれができるやろ。(うなずく長男に)それが偉いのだ。俺は君の立場だったら、友達には父親はもう死んでいないという。友達に、 「変なお父さんだね」と言われて、 「すごいお父さんだろ」と言えるの君が素晴らしい」(島田紳助の話し方はなぜ9割の人を動かすのか 久留間寛吉 あっぷる出版社参照)確かに自分の身になって考えても、もし自分のお父さんがオカマだったら恥ずかしくて、友達に見せることができないだろう。学校ではお父さんのことを必死になって隠して、お父さんがこの世に存在しないものとして対応するのではないか。それどころか家では家族みんなが寄ってたかってお父さんのことを非難したり無視するだろう。そして家族がバラバラになる。崩壊するかもしれない。この話は対人恐怖症で悩んできた私にとっても、とても考えさせられる話であった。私はかって、自分の弱みや欠点、ミスや失敗をすると、決して他人は見逃してはくれないと思っていた。それらは他人に知れ渡ると、みんなからのけ者扱いされて、 1人で寂しく生きていかなければならなくなる。所詮孤立して仙人のような生活をすることはできないわけだから、自分の弱みや欠点、ミスや失敗はあっても構わないが、人に見つからないように出来る限り隠さなければならないと考えていた。注意や意識の方向が常に他人の視線を意識して、自己内省するようになった。自分のやりたいことや夢や目標に向かって努力することがなくなり、必死になって防御することばかり考えるようになった。そうしていると気分がうつ的になり、生きることそのものが苦痛になってきた。しかも防御すればするほど、自分の思いとは反対に、自分の弱みや欠点、境遇や能力、ミスや失敗は相手に筒抜けになっていることがわかってきた。踏んだり蹴ったりの悪循環を繰り返していた。それは夜中に部屋の中で電気をつけると、部屋内から外のことはよくわからないが、薄手のカーテンだと窓の外からは部屋内のことが、手に取るように分かるようなものであると思う。学校で答案用紙を返されたとき、自分の得点が平均点以下であったとき、私はいつもすぐにカバンの中に入れて隠していた。友人に頭の悪い奴だとか能力のない奴だとかに見られないための精一杯の抵抗だったのである。人が見せてくれと言っても、なんだかんだと理由をつけて、決して見せる事はなかった。ところが反対に、悪い点を取れば取るほど、その答案用紙を周囲に見せる友達がいた。私には彼の行動の意味が全くわからなかった。自分を守ることをしなかったら、みんなからバカにされたり、時には仲間外れにされるのに、どうして自分の首を絞めるようなことをするのだろうと思っていた。ところが、実際では弱点や欠点、ミスや失敗を隠さずにすぐ公にする彼のほうにこそたくさんの友人がいた。隠し事がないと、相手が身構えることがなく、安心してざっくばらんに付き合えるのだ。その彼は、学歴はなかったが、定年前まで多くの部下を抱える大会社の部長をしていたという。中学の同窓会で聞いた。ガキ大将でいつも友達を何人も従えていた彼だった。片や、都合の悪い事を隠し通そうと懸命の努力をしていた私には、ほとんど友達ができなかった。そして会社勤めでは、中間管理職にまでにはなったが、部下の育成や教育はほとんど見るべき成果をあげることはできなかった。今になって思えば、小学生の頃からボタンの賭け違いをしていたツケが、その後大きな開きとなって現れたのである。森田理論では、事実を隠したり捻じ曲げたりすることを嫌う。どんなに自分にとって不都合な事実であっても、事実を事実のままに認めなければならない。そして事実に素直に服従しなければならない。その瞬間は注射針を打たれたような痛みはあるが、長い目で見れば、そうした生き方が1番安楽な生き方であるということを教えてくれている。私たちは事実を隠したり捻じ曲げたりしたくなった時に、そのようなことをすれば、自分の思いとは反対の方向に事態が進行してしまうということを肝に命じておくべきだと思う。