現実的な不安と観念的な不安
三重野悌次郎氏のお話です。我々は、自分が考えたり話したりすることは、事実そのままだと信じていますが、実際は事実の一部分か、あるいはありもしないことを、あると信じて、考えたり話したりしているのです。その例が神経質の苦しみです。ある人は専門病院の医師が否定するのに、心臓に疾患があると信じて、発作を恐れて電車にも乗れない。ある人は胃癌になったと思って勤務を休む、ある人は人前で緊張するのは自分の精神が弱いからだと考えて、精神強化のために坐禅をしたりする。これらはいずれも自分の考えたこと(観念・思想=言葉)を事実として、対応しているのです。つまり間違った地図によって現地を旅行しているのです。迷ったり生きづまったりするのは当然です。だがこのような誤りは神経質者に限らず、一般の人も同様な誤りを犯します。たとえば「近ごろの若い者はなってない」とか「女だから駄目だ」というのは、いずれも自分の考えを事実と混同しています。このような誤りを犯さないためには、常に事実をあるがままに見ることと、できるだけ具体的に話すことが大切です。(森田理論という人間学 三重野悌次郎 白揚社 126ページ)この話から「不安」を考えてみたいと思います。不安には2通りあります。まず現実的な不安があります。たとえば2024年8月8日日向灘地震が起きました。震源地は南海地震の震源域に含まれており、南海地震を誘発する可能性があると気象庁から注意喚起がなされました。これは事実に基づく現実的な不安です。現実的な不安に対しては危険回避のために積極的な対応が必要です。家具の固定、非常食の用意、水の確保、ヘルメットの用意、避難場所の確認をされた人が多いのではないでしょうか。これに対して、観念的な不安というものがあります。人間は言葉を使い記憶力を働かせて、過去のことを悔やみ、将来のことに取り越し苦労し、人の思惑を忖度します。危険がほとんどないことにも悩みます。例えば危害を加えるとは思えないような犬でも、犬を見るとすぐに逃げてしまう人がいます。あるいは危険かどうかわからないようなことまで悩みます。車のあおり運転のテレビ映像を見て、運転することを躊躇する人がいます。たしかめようがない未来のことに対しても、根拠のないことを想像して思い悩んでしまいます。訪問営業の仕事をしている人が、自尊心が傷付くことを恐れて仕事ができなくなる人もいます。神経症的な不安というものは、事実に基づかない観念的な不安です。非現実的な不安は、現実的な不安と違い曖昧模糊としたものです。したがって解決方法が見つからない。観念の世界で作り出した不安は、すぐにどんどん膨れ上がってしまいます。誰にでも起こりえるような失敗を自分が会社の中で居場所を失ったかのように膨らませてしまう。自分の一生が終わったかのように思い込んでしまう。