父さんの思い出 番外編01~05
父さんの思い出 番外編01~05父さんの思い出 番外編01 「母の誕生日」 お母さん、お誕生日おめでとうございます。 お母さん、私を生み育ててくれてありがとうございます。私はお母さんの子どもとして産まれて来た事に心から感謝しています。 お父さんと共働きで私たち4人兄弟を大切に育ててくれました。自分たちの事よりも子どもたちのためにと節約に節約を重ね、よその子の様に遊園地や旅行などにはあまり連れて行ってもれえず、幼い頃は兄弟の少ない子を羨んだ事がありました。ばち当たりです。 そして出来の悪い私を私立の高校に進ませてくれて、私立大学まで卒業させてくれました。それなのに私は教員採用試験に合格できなかったり、いろいろ期待に背いてばかりでした。 その上、やっと結婚できて子どもを2人授かり、家での整体院の仕事もようやく軌道に乗ってきた45歳の時、変な病気にかかってしまいました。本当に御免なさい。どんなに心配をかけた事か計り知れません。本当に親不孝者です。 そんな私を1番辛かった頃、精神面でも経済面でも支えてくれました。一生懸命に神様にお祈りをしてくれました。そして、私の首や背中を揉んでくれました。その甲斐あって私の病気は今ほとんど進行していません。本当にありがとうございます。 それからもう一つ。私の子どもたちの事をありがとうございます。私が教えられないいろいろな事を子どもたちはお母さんから吸収しています。そして2人ともお母さんの事が大好きです。 どうかこれからも、いつまでも元気で長生きしてください。 (平成22年6月8日のブログより)父さんの思い出 番外編02話 「妻の誕生日」 美奈さん、誕生日おめでとう。もし、あなたが生まれてきてくれなったら、私を結婚相手に選んでくれなかったら、私は全く違う人生を歩んでいる事になります。彼女いない暦38年、お見合いしてもいつも断られていました。「私は長男なので将来2世帯住宅に住んで、両親に何かあったら一緒に面倒見て欲しい」「結婚のための貯金は少しあるが、自宅の整体院の仕事だけでは収入が少なく、夜マッサージのバイトに行っているけど、収入は合わせて約10万ちょっと」お見合い相手にこれを言うといつも断られていました。その上、身長171cm、体重90kg。髪の毛が薄い。こんな体裁の上がらない男だから、何回もお見合いしたけれどいつも断られて、半分結婚をあきらめていました。お見合いをして2回目のデートの時、私はあなたに私のその時の状況を伝えました。あなたは黙っていました。私は「やっぱりだめか・・・」と思いました。でもあなたは私を選んで結婚してくれました。私はこんな自分でも愛してくれるあなたがいてくれて、自分自身にとても自信が持てるようになりました。そしてその自信のおかげか整体院の仕事も軌道に乗り自宅だけで充分の収入を得ることが出来るようになりました。そして、元気でかわいい二人の子どもを生んでくれました。美奈さん生まれて来てくれて本当にありがとう。でも、ごめんなさい。そんな時に変な病気になっちゃって・・・。 後もうひとつ、わたしの父の事どうもありがとう。一昨年前の暮れ、父の認知症がひどくなり父は紙おむつを嫌がり辺りそこいらじゅうを汚してしまうようになってしまいました。そんな時も、嫌な顔一つ見せず一生懸命掃除をしたり、父の面倒を見てくれました。その時の父は何も理解は出来なかったと思いますが、でもきっとあなたが私の妻になってくれた事を今天国で喜んでくれていると思います。 美奈さん生まれて来てくれて本当にありがとう。愛しています。 (平成22年3月27日のブログより) 父さんの思い出 番外編03 「原先輩」 私は相模原市立上鶴間中学校を卒業した。私が小学校6年の時に建てられた、当時新設の中学校で、私が第2期生と言う事になる。その中学2年の2学期の頃の思い出だ。昼休み校庭から校舎に入ろうと私は下駄箱近くにいた。すると2人のちょっとガラの悪そうな3年生が土足のまま中に上がりふざけていた。思わず「あっ、いけないんだ!」と私は言ってしまった。2人は私を睨みつけ因縁を付けてきた。私が半べそをかきそうになっていると、「お前達止めろ!」と、1人の3年生が声をかけてくれた。そして2人と睨み合いになった。「お前達が土足で上がったのが悪いんだろ。こいつに謝れ!」2人はしばらく黙っていたが「悪かったな」と言って気まずそうに上履きに履き替え去っていた。「ありがとうございます」私はお礼を言った。しかし、先輩は何も言わず行ってしまった。かっこいい先輩だ。惚れ惚れとしてしまった。その後、クラスの野球部の友達にその先輩は原先輩だと聞かされた。まさかその時、この先輩が将来巨人軍で活躍して監督になるなどとは思っても見なかった。私はスポーツ音痴で野球界のことはまったく知らない。スポーツ新聞もニュースもまったく見ないので原監督についても中学校の時の印象ぐらいしかない。でも原監督がこれだけしっかり巨人軍を支えていられるのはその人望、人柄からなのではないかと思う。正義感が強く人に信用される人柄だ。 本当に一流の立派な人は知識や技術が優れているだけでは駄目だ。人に信用される行動が伴って初めて一流になれるのだと思う。 出来る事なら君達二人にも一流になって欲しい。・・・ちょっと高望みかなぁ。 平成22年4月23日 父さんの思い出 番外編04「禁煙から糖尿病」 大学に入学してすぐにタバコを吸い始めて、何度も止めようと思い禁煙を何回もして失敗をするごとに、「なんて自分は意志の弱い人間なのだ」と、タバコに手を出したことを後悔していた。娘が生まれた時も、副流煙を吸わせたくなかったので家の外に出て吸っていた。その年の11月の寒くて冷たい雨の降る晩、玄関の外でタバコを吸いながら考えた。当時吸っていたセブンスターは2百数十円。1日に2箱以上は吸っていたので1日に500円だとしたらひと月1万5千円。1年で18万円。娘が二十歳になるころには360万円も無駄使いすることになる。そんなことを考えていたら、今回はどうしても禁煙を成功させなければならなかった。その時吸ったたばこを最後に、手元にあったタバコはすべて捨てた。 それから辛い日々が続いた。何度もタバコを吸ってしまい自分を責める夢を見た。口が寂しくて、寂しくて、飴やガムなどいつも口に入れていた。4~5か月続いたある日に気が付いた。タバコに対する欲求は大分薄れてきたものの、やけにトイレが近い。その上、甘い飲み物が欲しくてたまらない。丁度その時私は40歳で大和市の健康診断の券が届いたので受診した。すると医者に言われた「ヘモグロビンA1cが15です。いつ失明してもおかしくない値です!すぐに眼科を受診してください」ショックでその日と次の日は何も食べるものがのどを通らなかった。しかし糖尿病になってしまったことを嘆いていても仕方がないので、食事に気を付けて糖が燃えやすい体にするためにトレーニングを始めた。バーベルやダンベルそしてベンチがセットになった30万円位する物を通販で買った。筋トレは1日おき、筋トレをしない日は10キロほどのジョギングをした。当時、昼は自宅で整体の仕事、夜は8キロほど離れた温泉でマッサージのバイトをしていた。仕事はかなり強揉みのお客さんが付いていたので、それだけでも結構重労働だったのだが、バイトに行くのも車から自転車に変えた。結果その後数年間、血糖値は下がり薬も飲まず、穏やかに過ごすことが出来た。しかし、45歳の11月ジョギングして左腕が動きづらいことに気が付いた。整形外科を受診すると始めは「頚部ヘルニア」と言われたのだが下半身にも症状が出るようになって市民病院で検査してもらうと「頚部も腰部も脊柱管狭窄症です」と診断されてしまった。私はあまりにも辛かったので手術をしてでも治りたかった。そして、その後2か所の大学病院で検査してもらったものの「手術するほどの物ではありません」と言われ、もしかして整形外科では分からない病気なのかと思い神経内科を受診したところ「筋萎縮性側索硬化症(ALS)の可能性が高いです」と言われてしまい絶望の底に落ちた。その後、心霊療法を受けた回復することが出来た。糖尿病の薬は飲んでいるが、ほぼ健康体で過ごしている。 今、娘は二十歳、息子は16歳。最近タバコを吸う人は減っているが絶対に手を出さないで欲しい。最初からタバコを吸っていなければ、私は糖尿病になっていなかったかもしれないのだから。 令和元年5月21日 父さんの思い出 番外編05「自殺願望」 45歳の時に体調を崩しなかなか回復しない中、「こんなに辛い日が続くのなら死んでしまいたい」と、何度も思った。それまでどんなことがあっても死んでしまいたいなどと思ったことのない私が・・・。思い返せばそれまでがいかに幸せな人生だったのだろう。仕事でパワハラを受け辛い思いをしたことは何回かあるが、我慢をしているうちにその上司が移動になったりして、自殺まで考えた事はなかった。 しかし、「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」と、言われ本当に生きていくのが嫌になった。人工呼吸器を付けると死ぬまで外すことが出来ないと言うことなので、私は付けない事に決めていた。少しずつ呼吸器筋が落ちて、苦しくて、苦しくて・・・どんな感じなのだろうか・・・それならば、一瞬の苦しさで・・・自殺してしまおうか・・・。何度そんなことを考えていただろうか?しかし、自殺するとどんな方法でも周りの人に迷惑をかける。だから自殺はできなかった。しかし、道を歩いているとき車が突っ込んできて交通事故で死んでしまいたい。とか、一人でいる時私に隕石が落ちてきて、事故死したい。などと真剣にいつも考えていた。その頃は死んでしまえば、「無になる」と、思っていた。無になれば、痛みや苦しみ等も無になる。だからいつも「死んでしまいたい」と思い続けていた。そんな私が霊能者の方に心霊療法で助けて頂き「死後の世界」を信じることが出来た。そして、「霊」について興味を持ち、勉強することが出来た。今思えばあの時に交通事故だとかに会わずに、元気に生きていられることを心から感謝している。 二人も生きていれば「死んでしまいたい」と、思うことはあると思う。しかし、自ら死ぬことは絶対にしてはいけない。どんなに苦しくて辛くても、全く希望が見えなくても、生きていれば、その時を乗り越えれば、きっと何とかなる!自分の人生に自信をもって生きるように!! 令和2年9月9日