50 -1. 業・カルマ・因果律
50-3まであります『次の日記』で進んでください 50-a (戦争、事故、寿命は業によって決まるのか) 業(ごう)というのは詰まるところは因果律のことです。善因善果、悪因悪果というのも大自然の因果律の一部です。その働きには何者といえども介入を許されません。これは神の公正の証として神が用意した手段の一つです。もしも介入が許されるとしたら、神の公正は根底から崩れます。因果律というのは行為者にそれ相当の報酬を与えるという趣旨であり、多すぎることもなく少なすぎることもないよう配慮されています。それは当然個人だけでなく個人の集まりである国家についても当てはまります。次ぎに寿命についてですが、寿命は本来、魂そのものが決定するものです。しかし個人には自由意志があり、また、もろもろの事情によって寿命を伸び縮みさせることも不可能ではありません。戦争が不可避かとの問いですが、これはあなたがた人間自身が解決すべきことです。自由意志によって勝手なことをしながら、その報酬は受けたくないというようなムシのいい話は許されません。戦争をするもしないも人間の自由です。が、もし戦争の道を選んだら、それをモノサシとして責任問題が生じます。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.81-82 ***** 50-b (善行によってカルマは一度に精算できるか) 自然法則の根本はあくまでも原因と結果の法則、つまり因果律です。業もその法則の働きのなかで消されていくのであって、途中の過程を飛び越えていっぺんに消えることはありません。原因があればかならず相当の結果が生じ、その結果のなかに次の結果を生み出す原因が宿されているわけで、これはほとんど機械的に作動します。質問者がおっしゃるように、ある人が急に愛と奉仕の生活に入ったとすれば、それはそれなりに業の消滅に寄与するでしょう。しかし、いっぺんにというわけにはいきません。愛と奉仕の生活を積み重ねていくうちに徐々に消えていき、やがて完全に消滅します。業という借金をすっかり返済したことになります。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.80-81 ***** 50-c (事故は業を消すために計画されるのか) ご質問はいろいろな問題を含んでおります。まず"計画されている″という言い方はよくありません。そういう言い方をすると、まるで故意に、計画的に、惨事をひき起こしているように聞こえます。すべての事故は因果律によって起こるべくして起きているのです。その犠牲者---この言い方も気に入りませんが取り敢えずそう呼んでおきます---の問題ですが、これには別の観方があることを知って下さい。つまり、あなたがたにとって死はたしかに恐るべきことでしょう。が私たち霊界の者にとっては、ある意味でよろこぶべき出来ごとなのです。赤ちゃんが誕生すればあなたがたはよろこびますが、こちらでは泣き悲しんでいる人がいるんです。反対に死んだ人は肉体の束縛から解放されたのですから、こちらは大喜びでお迎えしています。次に、これはあなた方には真相を理解することは困難ですが、宿命というものが宇宙の大機構の中で重大な要素を占めているのです。これは運命と自由意志という相反する二つの要素が絡み合った複雑な問題ですが、二つとも真実です。つまり運命づけられた一定のワクの中で自由意志が許されているわけです。説明の難しい問題ですが、そう言い表すほかにいい方法が思い当たりません。 『シルバー・バーチの霊訓(4)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.84-85 ***** 50-d (原因と結果の法則は容赦なく展開する) (摂理をどう理解しているかに関係なく)原因と結果の法則は容赦なく展開していきます。その因果関係に干渉できる人はいません。その絶対的法則と相いれないことが起きるかのように説く教説、教理、教訓は間違っております。原因と結果の間にはいかなる調停も許されません。あなた自身の責任を他人の肩に背負わせる手段はありませんし、他人の責任があなたの肩に背負わされることもあり得ません。各自が各自の人生の重荷を背負わねばなりません。そうあってはじめて正直であり、道徳的であり、倫理的であり、公正であると言えます。それ以外の説はすべて卑劣であり、臆病であり、非道徳的であり、不公平です。真理は完璧なのです。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986、pp.59-60 ***** 50-e (患者が自由意志によって死を選んでも因果律は働くのか) いついかなる場合でも因果律が働いています。あなたのこのたびの地上への誕生も因果律が働いたその結果です。これから訪れるあなたの死も因果律の自然な働きの結果であるべきです。それを中断させる、つまり余計な干渉をするということは、自然な因果関係を破壊することですから、当然その償いをしなければならなくなります。 何度も申し上げておりますように、死は霊に準備ができた時に訪れるべきものです。それはリンゴが熟すると木が落ちるのと同じです。まだ熟し切らないうちにもぎ取れば、そのリンゴは食べられません。霊も十分な準備ができないうちに身体から無理やり離されると、それなりのペナルティが課せられます。それを因果律というのです。 人間の判断は物的観察だけに基づいておりますが、人生の目的はもともと霊的なものなのです。人間の勝手な考えで地上から連れ去ってはいけません。人間には全体像が見えません。物的側面しか見えません。一人ひとりに生まれるべき時があり死ぬべき時があります。それもすべて自然の摂理の一環なのです。あなた方が生命を与えるのではありません。ですから勝手に奪うことも許されません。生命は神のものなのです。 神はその無限の叡智によって、各自が公正な裁きを受けるように摂理を用意しておられます。その永遠のいとなみを、この地上生活という一かけらでもって判断しようとすると誤ります。あなた方は霊というもの、およびその霊への反応というものを推し量る手段を何一つ持ち合わせていないのです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.143-144 ***** 50-f(患者が自由意志によって死を選んでも因果律は働くのか)(続) 苦しみが魂にとって薬になることがあります。それによって魂の本質が試されることになります。潜在する資質が呼び覚まされます。鋼は炎の中においてこそ鍛えられるのです。黄金は破砕と練磨によってはじめて真の姿を現すのです。 地上生活の出来ごとには必ず目的があります。哀れな姿を見て同情なさるお気持ちは私にも分かります。ですが、地上生活には偶然というものは何一つないのです。それに、いったい誰に、生殺与奪の権利を握る資格があるのでしょうか。医師が判断を誤ることは十分に有りうることです。数々の誤診を犯している現実をごらんになれば分かります。 私たちはあなた方と正反対の見方をすることがあります。肉体の死は霊の誕生という見方をします。混乱状態を進歩と見なし、人間が進歩と思っていることを禍いの種と見なすことがあります。永遠を物的なものさしで計っても満足のいく解答は得られません。 たとえば、なぜ苦しみがあるのか。いたいけない子供がなぜ苦しまねはならないのか。痛み、病気、面倒、危機、こうしたものがなぜあるのか。そういう疑問を抱かれるようですが、それもすべて霊の進化という永遠の物語の一部なのです。その中には地上に誕生してくる前に、みずから覚悟しているものもあるのです。霊的な身支度を整える上で学ぶべき教訓を提供してくれる、ありとあらゆる体験を経ないことには成長は望めません。とどのつまりは、それが存在の目的なのです。 こうしたことは前にも申し上げました。光の存在に気づくのは暗闇があるからこそです。もしも暗闇がなければ、光とはいかなるものであるかが分かりません。埋め合わせと懲らしめの原理というのがあります。神は厳正なる審判者です。差引勘定がきっちりと合わされます。決算書を作成するときが来てみると帳じりがきっちりと合っています。 どうか同情心はこれからも持ち続けてください。しかし同時に、見た目に気の毒なこと、理解に苦しむことの裏側にも必ずちゃんとした意味があることを理解するようにつとめてください。 永遠の時の流れの中にあっては、数時間や数日は大して意味はありません。大切なのは魂に及ぼす影響です。たぶんご存知と思いますが、実際は患者よりも側で見ている人の方が苦しみが大きいことがよくあります。患者自身は単に身体上の反応を見せているだけで、あなたがさぞかしと思いやっておられる苦しみは味わっていないものです。 魂に及ぶものが一ばん大切です。と言って、身体上のことに無神経になりなさいと言っているのではありません。身体は霊が地上で自我を表現する媒体です。両者はつねに反応し合っております。身体は霊に影響を及ぼし、霊は身体に影響を及ぼしています。しかし、どちらが上かと言えば、文句なしに霊の方です。霊が王様であり身体は召使いです。 身体にいくら薬品を注ぎ込んでも、別に霊には影響ありません。それによって最終的な身体との分離の時期を少しばかり遅らせることはできるかも知れませんが、霊はいつかは身体を離れなければならないという摂理を変えることはできません。不老不死の妙薬や治療法をいくら求めても無駄です。自然の摂理によって支配されているからです。 『シルバー・バーチの霊訓 (8)』(近藤千雄訳) 潮文社、1987、pp.144-147 *****