16 -1. 心霊治療
16-8まであります『次へ >>』で進んでください 16-a (心霊治療の意義と治療者の心構え) 病気治療も、霊的交信を通じての慰めも、さまざまな霊的現象も、究極的には人間が例外なく神の分霊であること、すなわち霊的存在であるというメッセージに目を向けさせてはじめて意義があり、神から授かった霊的遺産を我がものとし宿命を成就するためには、ぜひその理解が必要です。 それが困難な仕事であることは私もよく承知しております。が、偉大な仕事ほど困難が伴うものなのです。霊的な悟りを得ることは容易ではありません。とても孤独な道です。それは当然のことでしょう。もしも人類の登るべき高所がいとも簡単にたどりつくことができるとしたら、それは登ってみるほどの価値はないことになります。安易さ、呑ん気さ、怠惰の中では魂は目を開きません。刻苦と奮闘と難儀の中にあってはじめて目を覚まします。これまで、魂の成長が安易に得られるように配慮されたことは一度たりともありません。 あなた方が治療なさる様子を見ていとも簡単に行っているように思う人は、表面しか見ていない人です。今日の頂上に到達するまでには、その背景に永年の努カの積み重ねがあったことを知りません。治療を受ける者が満足しても、あなた方は満足してはなりません。一つの山頂を極めたら、その先にまた別の山頂がそびえていることを自覚しなくてはいけません。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.13-14 ***** 16-b (未発達の魂は心霊治療でも治らない) 私が言わんとしているのは、まさにそのことです。ただ、未発達という用語は解釈の難しいことばです。私が摂理の存在を口にする時、私はたった一つの摂理のことを言っているのではありません。宇宙のあらゆる自然法則を包含した摂理のことを言います。それが完璧な型にはめられております。ただし法則の裏側にまた別の次元の法則があるというふうに、幾重にもなっております。しかるに宇宙は無限です。誰にもその果てを見ることはできません。それを支配する大霊(神)と同じく無窮なのです。すると神の法則も無限であり、永遠に進化が続くということになります。 物質界の人間は肉体に宿った魂です。各自の魂は進化の一つの段階にあります。その魂には過去があります。それを切り捨てて考えてはいけません。それとの関連性を考慮しなくてはなりません。肉体は精神の表現器官であり、精神は霊の表現器官です。肉体は霊が到達した発達段階を表現しております。もしもその霊にとって次の発達段階に備える上での浄化の過程としてその肉体的苦痛が不可欠の要素である場合には、あなた方治療家を通じていかなる治癒エネルギーが働きかけても治りません。いかなる治療家も治すことはできないということです。 苦痛も大自然の過程の一つなのです。摂理の一部に組み込まれているのです。痛み、悲しみ、苦しみ、こうしたものはすべて摂理の中に組み込まれているのです。話はまた私がいつも述べていることに戻ってきました。日向と日蔭、平穏と嵐、光と闇、愛と憎しみ、こうした相対関係は神の摂理なのです。一方なくしては他方も存在し得ません。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.19-20 ***** 16-c (心霊治療の役目は患者の生得の機能を活かすことか) そうとも言えますが、それだけではありません。というのは、患者は肉体をまとっている以上とうぜん波長が低くなっています。それで霊界からの高い波長の霊波を注ぐにはいったん治療家というコンデンサーにその霊波を送って、患者に合った程度まで波長を下げる必要があります。そういう過程をへた霊波に対して患者の魂がうまく反応を示してくれれば、その治癒効果は電光石火と申しますか、いわゆる奇跡のようなことが起きるわけですが、患者の魂にそれを吸収するだけの受け入れ態勢ができていない時は何の効果も生じません。たとえば曲がっていた脚を真っすぐにするのはあなた方ではありません。患者自身の魂の発達程度です。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, p.26 ***** 16-d (神を信じない人でも治ることはある) 神を信じない人でも霊格の高い人がおり、信心深い人でも霊格の低い人がいます。霊格の高さは信仰心の多寡で測れるものではありません。行為によって測るべきです。いいですか、あなた方(心霊治療家)は治るべき条件の整った人を治しているだけです。ですが、喜んでください。あなた方を通じて知識と理解と光明へ導かれる人は大勢います。みながみな治せなくても、そこには厳とした法則があってのことですから、気になさらないことです。と言って、それで満足して努力することを止めてしまわれては困ります。いつも言っているように、神の意志は愛の中だけでなく憎しみの中にも表現されています。晴天の日だけが神の日ではありません。嵐の日にも神の法則が働いております。成功にも失敗にもそれなりの価値があります。失敗なくしては成功もありません。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, p.27 ***** 16-e (治る見込みがない場合の安楽死の是非) あなた方の辛い立場はよく分かります。私としても好んで冷たい態度をとるわけではありませんが、法則はあくまでも法則です。肉体の死はあくまで魂にその準備ができた時に来るべきです。それはちょうど柿が熟した時に落ちるのと同じです。熟さないうちにもぎ取ってはいけません。私はあくまでも自然法則の範囲内で講ずべき手段を指摘しております。たとえば薬や毒物ですっかり身体をこわし、全身が病的状態になっていることがありますが、身体はもともとそんな状態になるようには意図されておりません。そんな状態になってはいけないのです。身体の健康の法則が無視されているわけです。そういう観点から考えていけば、どうすれは良いかはおのずと決まってくると思います。何ごとも自然の摂理の範囲内で処置すべきです。本人も医者も、あるいは他の誰によってもその摂理に干渉すべきではありません。もちろん、良いにせよ悪いにせよ、何らかの手を打てばそれなりの結果が生じます。ですが、それが本当に良いことか悪いことかは霊的法則にどの程度まで適っているかによって決まることです。つまり肉体にとって良いか悪いかではなくて、魂にとって良いか悪いかという観点に立って判断すべきです。魂にとって最善であれば肉体にとっても最善であるに違いありません。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.31-32 ***** 16-f (病気を縁に魂を目覚めさせる) 霊力の真の目的は(病気が縁となって)あなた方(心霊治療家)のもとを訪れる人の魂を目覚めさせることです。自分が本来霊的な存在であり、物的身体は自分ではないことに気づかないかぎり、その人は実在に対してまったく関心を向けないまま地上生活を送っていることになります。言わば影の中で幻を追いかけながら生きていることになります。実在に直面するのは真の自我、すなわち霊的本性に目覚めた時です。地上生活の目的は、帰するところ自我を見出すことです。なぜなら、いったん自我を見出せば、それからというものは(分別のある人であれば)内部に宿る神性をすすんで開発しようとするからです。残念ながら地上の人間の大半は真の自分というものを知らず、したがって不幸や悲劇に遭うまで自分の霊的本性に気づかないのが実情です。光明の存在に気づくのは人生の闇の中でしかないのです。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.32-33 ***** 16-g (魂の治療では地上の役割は霊界より小さいか) 小さいとも言えますし大きいとも言えます。問題は波長の調整にあります。大きく分けて治療には二通りの方法があります。一つは治癒エネルギーの波長を下げて、それを潜在エネルギーの形で治療家自身に送ります。それを再度治癒エネルギーに還元してあなた方が使用します。もう一つは、特殊な霊波を直接患者の意識の中枢に送り、魂に先天的に具わっている治癒力を刺激して、魂の不調和すなわち病気を払いのける方法です。こう述べてもお分かりにならないでしょう。 ・・・・では説明を変えてみましょう。まず、そもそも生命とは何かという問題ですが、これは地上の人間にはまず理解できないと思います。なぜかというと、生命とは本質において物質とは異なるものであり、いわゆる理化学的研究の対象とはなり得ないものだからです。で、私はよく生命とは宇宙の大霊のことであり、神とはすなわち大生命のことだと言うのですが、その意味は、人間が意識をもち、呼吸し、歩き、考えるその力、また樹木が若葉をまとい、鳥がさえずり、花が咲き、岸辺に波が打ち寄せる、そうした大自然の脈々たる働きの背後に潜む力こそ、宇宙の大霊すなわち神なのだというのです。同じ霊力の一部であり一つの表現なのです。 あなた方が今そこに生きておられる事実そのものが、あなた方も霊であることを意味します。ですから同じく霊である患者の霊的進化の程度に応じたさまざまな段階で、その霊力を注入するというのが心霊治療の本質です。ご承知のとおり病気には魂に起因するものと純粋に肉体的なものとがあります。肉体的なものは治療家が直接触れる必要がありますが、霊的な場合は今のべた生命力を活用します。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, pp.35-36 ***** 16-h (心霊治療は霊界からの方がやり易くはないか) そうも言えますが、逆の場合の方が多いようです。と言うのは、死んでこちらへ来た人間でさえ霊的波長よりは物的波長の中で暮らしている(地縛の)霊が多いという事実からもお分かりのとおり、肉体をまとった人間は、よほど発達した人でないかぎり、たいていは物的な波長にしか反応を示さず、私たちが送る波長にはまったく感応しないものです。そこであなた方地上の治療家の存在が必要となってくるわけです。霊的波長にも物的波長にも感応する連結器というわけです。治療家にかぎらず霊能者と言われている人がつねに心の修養を怠ってはならない理由はそこにあります。霊的に向上すればそれだけ仕事の範囲が広がって、より多くの価値ある仕事ができます。そのように法則ができあがっているのです。ですが、そういう献身的な奉仕の道を歩む人は必然的に孤独な旅を強いられます。ただ一人、前人未踏の地を歩みながら、後の者のための道しるべを立てていくことになります。あなたにはこの意味がお分かりでしょう。すぐれた特別の才能にはそれ相当の義務が生じます。両手に花とはまいりません。 『シルバー・バーチの霊訓(6)』(近藤千雄訳) 潮文社、1986, p.38 *****