人は見かけでつくられる?
「人間って、見た目が9割(だっけ?)っていう本もあったけど、どう見えるかって実はすごく大事。」とあるメルマガに書いてあった。「”あの子、きつそ~に見えるけど、やさしいわ!”とか意外なことはあるとしても、自分がどう見られているか、ってことで自分が作られていくといっても過言でない。」 だって。それに賛成するかどうかはともかく、娘のプリスクールの先生を見ていると、この説はあたっているんじゃないかと思ってしまう。だって、幼稚園の先生っぽく見えないんだもん。すごいメークだし。髪は長く伸ばしてソバージュで、メッシュも入れてて。あ、でも爪は赤いマニキュアじゃないし、香水もつけてないな。まあ、彼女なりに気を遣っているんだろう。あれでも。昨日仕入れた情報によると、娘の通うプリスクールには、「幼児であってもキチンとしつける」派と、「幼児なんだから、自由にやらせましょう」派があるらしい。そして娘の先生は、バリバリの前者なのである。私はハッキリいって、この先生になったのは娘の不運だったと嘆いていた。しかし昨日、長くこのプリスクールに通っている子のお母さんから、「1年たったとき、しつけ派の子どもたちは、自由派の子どもたちより、かなりしっかりしてくるよ」と、しつけ派の利点を教えられたのだ。そうかあ・・・と、少しはそれで、気が楽になった。でも、プリスクール大好きな娘でさえ、その先生はいまだに挨拶もしないで無視していたり、同じクラスのもっとおしゃべりが上手な子にいたっては「こわい」とまで言って嫌がる現実は、どう受け止めればよいのか?それに対して、他のお母さんが言った。「ビジュアル的なものなんじゃない?」やはり、見かけのせいなのか?幼稚園の先生っぽくないという見かけが、子どもたちに懐かれないという、幼稚園の先生っぽくない中身も作っているのだろうか?娘はその厳しい先生には挨拶をしないので、毎回頭を押さえつけられていたけれど(やめてくれと言ったらしなくなったけど)、優しくて懐いているアシスタントの先生に対しては、90度以上の角度で、深々と頭を下げている。「北風と太陽」という話のように、子どもの自主性を重んじてほしいと思うのは、新米の母親の甘さだろうか?まだ2才児、人生最初の先生なんだから、厳しくて敬遠されるより、優しくて懐かれる先生に見てもらいたかったというのが、私の本音である。