〔表現〕無意識を意識する
これまでに表現のテクニックとして、いろいろなコツを書いてきています。今回は少し理屈っぽくなりますが、それらのコツの持つ意味について考えてみたいと思います。私たちは普段、会話をとおして他の人と交流をはかっています。ですから、相手の言葉、つまり相手が「どう言ったか」ということを重視していると感じています。しかし、例えば相手が悲しんでいるように感じたと考えてみてください。はっきりと「悲しい」と言うこともありますが、たとえそのような言葉がなくても「悲しそうだな」と感じることの方が多いと思います。これはどうしてなのでしょうか?実はある調査によると、人が人を判断するとき、純粋な言葉による判断はわずか7%しかなく、実に93%の部分が言葉以外のこと(非言語的な情報)によって判断しているということです。非言語的な情報とは、体の動き(視線、表情、身振りなど)や声の調子のことなどをさします。「悲しそうな顔」とか「悲しそうな声」というとき、私たちは非言語的な情報をもとに判断しているといえるわけです。まったく言葉の意味がわからない外国の曲を聴いても感情が伝わってくるのは、このような非言語的情報を私たちが受け取っているからにほかなりません。それに、同じ「悲しい」でも、芝居がかった悲しみもあれば、抑制された悲しみもあります。哀感、慟哭だってあります。私たちは気づかないうちに非言語的メッセージとしてこのような悲しみを使い分け、また感じ取っているわけですね。ただ、やっかいなのはこのことが発信する側も受信する側もほとんど「無意識的」に行っているため、どうすれば非言語的メッセージをうまく伝えることができるか意識しにくいのです。合唱の場合、非言語的情報として伝えられるのは、声の高低、強弱、速度、明暗といったことがメインとなり、これに表情、多少の体の動きが加わることになります。これまでにお話ししてきている表現のコツは、非言語的メッセージを多少誇張することによって、より聴衆に伝わりやすくするための方法だというわけですね。