秋の夕暮れ
釣瓶落としとはよく言ったもので 日の落ちることのなんと早いこと。娘がね、毎日「お母さん!夕焼けが始まったよ!」と教えてくれましてそれで2人慌てて屋外に出、夕暮れの空を見上げるのです。娘は幼い頃から空を見上げるのが好きでして3歳の頃からずっと夕暮れの美しさを教えてくれています。「ママ見てよ 夕焼けがすごくきれいだよ」 吾子にせかされ庭に出る日々これは娘が3歳の頃に詠んだ歌ですが今でも目をつぶりますと夕暮れ時の風に吹かれていた娘の前髪 可愛いエプロン近くの畑から流れていた煙の匂い 少し肌寒かった空気。・・・・多くのものが鮮やかによみがえって参ります。今、私の住んでおります地域では 夕暮れ時,鐘の音がきこえてこないのですね。そのことを少し淋しく思います。幼い頃を過ごした飫肥の町では 毎日夕方の5時になりますと鐘の音がきこえていました。それまでお友達と夢中になって遊んでいるわけでしょう?この頃の季節では主にゴム飛びや毬つきでした。今思いますに、子どもの遊びの世界におきましても季節によって遊びの内容が変わってくるのですね。春には蓮華摘み、夏には鬼ごっこ、そして冬には押しくらまんじゅう、花いちもんめ。寒さのもっと厳しい時期ともなりますとおうちの中でお人形あそび。あの頃一緒に遊んだお友達は今でも大の仲良しで大切な大切なおさななじみです。今でも忘れられない風景があります。いつものようにお友達と一緒に遊び、夕暮れの鐘の音もきこえてきてさあ、おうちに帰ろうとしていたとき近くの山々の樹々が一斉に音をたて ざわざわと揺れ始めたのです。激しい風にあおられてのことだったと思うのですがまるでそれは生きているものの如く宮崎の言葉で「叫ぶ」ことを「おらぶ」といいますがまさしくそれは「荒れ狂いおらぶ」姿でした。・・・その時に思ったのです。当時私はまだ小学校低学年だったと記憶しておりますがこうしてお友達と楽しく遊ぶ世界の他にもっといろんな世界が、この世には在るのだと。そのまだ知らぬ世界を 自然は教えてくれているのだと。勿論 当時そんな「言葉」で考えていたわけではありません。しかし、感じ取っていたものは大人の今とそう変わりはないと思うのです。淋しさとも怖さともつかぬ感情を抱きつつ山々の姿――――あれは今にして思えば葛の葉だったのでしょうか風にあおられ翻り そのたびに葉裏の薄白さが目に焼き付きました。山の麓の竹林が音をたて波打ちました。そしていつまでも揺れ止まないのです。背の高い薄の穂も細長い葉も風に靡いていました。少しずつ闇が近づき 気が付けばすぐ近くに立っているお友達の顔も判別し難くなるほどに。そこで皆慌てておうちに帰り始めるのです。走って帰る道の向こう、我が家の灯りが見えてきた時の嬉しさと言ったら。確かに子ども時代というのは知識はさほどありません。けれど怖ろしいほどの感受性でこの世のものを見つめています。そして子ども時代に心に刻みつけたものが年齢を重ねた今になって 心の奥底から出てくるのではないかと。子どもの頃 明け方近くにふと目を覚まし その青白い世界の中、まるで深海にいるような静けさに身震いしたこと。震えながら、お昼間は家族に囲まれ賑やかに過ごしていたとしても人間というものは結局独りなのだ、と感じたこと。車の通らぬ路にござを敷き夏の夜空を見上げていたこと。「昔と変わらぬ世界がここにある」と思ったこと。竹林のそばを通り過ぎるとき ついつい光る竹を探してしまったこと。ガラスの靴を一度で良いから履いてみたかったこと。吉備団子を見ると思わず腰にぶら下げたくなること。親戚の船に乗せてもらい窓際すれすれに波が寄せて怖い思いをし遙か昔の遣隋、遣唐使の人々に思いを寄せたこと。・・・・我が子を育てるということは自分の子ども時代をもう一度ふり返るということ、そしてあの頃と同じ体験をもう一度繰り返すことでありこの世に在る美しいもの まだ知らぬものを我が子と共に見つけていくことなのだと思います。