「ロシア旅日記」ドフトエフスキー号に乗ってロシアへ
ロシアに行くと言えば、この航空会社に乗らざるを得ないアエロフロート(少し日系も乗り入れしているが)アエロフロート噂では、とってもオンボロ飛行機だとの噂!海外旅行で命を失う事を幸せだと感じる程の海外旅行依存症の私、もはやとめる人さえありません! = 「 ロ シ ア 旅 日 記 」 = 米国では、先月 『ハドソン川の奇跡』 あれは、元・米軍人パイロットに寄る 見事なテクニックでありました。 噂では、 ロシアのパイロットは、元・軍人が多く 飛行回数の多さから 飛行技術は、抜群との事!! オンボロ飛行機でも、技術があれば・・・何とかなりそう!?? 確かに、 この日のパイロットは、優秀だと思える・・・ 飛行機の離発着も、途中の揺れもうまく交わしていた! そして 搭乗 間もなくの キャプテンのご挨拶の なが~い事・・・・ 勿論・そんな長~~い挨拶の意味も不明でありますが、 たった1名乗り組んだ 日本人CAさんの通訳に寄ると 「この飛行機の名前は、ドフトエフスキー号であります。 ロシアの飛行機には、ロシアの偉人の名前が付けられている その理由をキャプテンから、長い説明がありました。 説明は、大変 長いものでして、どうしてもお知りになりたい方は 後ほど、各自わたくしにお尋ね下さい。」 と 知りたいけど・・・忙しいのに、尋ねる勇気も無いし・・・・ 「ドフトエフスキー号」か~ ドフトエフスキーって「罪と罰」を書いたロシアの文豪だよね!? ロシア文学に縁が無かったきらり。 しかし、このドフトエフスキーの生涯を見てみると ロシアについて知るべき事が、いっぱいある気がして来る! と言う事で、調べてみると飛ばして下さい フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(ロシア語: Фёдор Михайлович Достоевский,1821年11月11日〔ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)は、ロシアの小説家・思想家である。代表作は『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』など。レフ・トルストイと並び、19世紀後半のロシア文学を代表する文豪である。その著作は、当時広まっていた理性万能主義(社会主義)思想に影響を受けた知識階級(インテリ)の暴力的な革命を否定し、キリスト教、ことに正教に基づく魂の救済を訴えているとされる。実存主義の先駆者と評されることもある。なお、姓は訳者によってドストエフスキイ、ドストエーフスキイ、ドストイェーフスキイなどと表記されることもある。 略歴モスクワの貧民救済病院の医師の次男として生まれ、15歳までモスクワの生家で暮らした。工兵学校生・作家時代を送ったペテルブルクは物語の舞台として数々の作品に登場する。1846年、処女作『貧しき人々』を批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞され、華々しく作家デビューを果たす。デビュー前のドストエフスキーから直接作品を渡されて読んだ詩人ネクラーソフが、感動のあまり夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名である。デビューこそ華々しかったものの、続けて発表した『白夜』『二重人格』は酷評をもって迎えられる。その後、ミハイル・ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義サークルのサークル員となったため、1849年に官憲に逮捕される。死刑判決を受けるも、銃殺刑執行直前に皇帝からの特赦が与えられて(この一連の特赦はすべて仕組まれたものであった)、シベリア流刑へと減刑になり、オムスクで1854年まで服役する。この時の体験に基づいて後に『死の家の記録』を著す。他にも『白痴』などで、死刑直前の囚人の気持ちが語られるなど、この事件は以後の作風に多大な影響を与えた。刑期終了後、兵士として軍隊で勤務した後、1858年にペテルブルクに帰還する。この間に理想主義者的な社会主義者からキリスト教的人道主義者へと思想的変化があった。その後『罪と罰』を発表し、評価が高まる。自身の賭博好きな性質、シベリア流刑時代に悪化した持病のてんかん(側頭葉てんかんの一種と思われる。恍惚感をともなう珍しいタイプのてんかん)などが創作に強い影響を与えており、これらは重要な要素としてしばしば作品中に登場する。賭博好きな性質は、ドストエフスキーの生涯を貧乏生活にした。借金返済のため、出版社との無理な契約をして、締め切りに追われる日々を送っていた。あまりのスケジュール過密さのため、『罪と罰』、『賭博者』などは口述筆記という形をとった。速記係のアンナ・スニートキナは後にドストエフスキーの2番目の妻となる。また、小説以外の著作として『作家の日記』がある。これはいわゆる日記ではなく、雑誌『市民』でドストエフスキーが担当した文芸欄(のちに個人雑誌として独立)であり、文芸時評(トルストイ『アンナ・カレーニナ』を絶賛)、政治・社会評論、エッセイ、短編小説、講演原稿(プーシキン論)、宗教論(熱狂的なロシアメシアニズムを唱えた)を含み、後年ドストエフスキー研究の貴重な文献として参照されることとなった。晩年に集大成ともいえる長編『カラマーゾフの兄弟』を脱稿。その数ヵ月後の1881年1月28日に家族に看取られながら60歳で亡くなる。ドストエフスキーの末裔ドミトリーは現在もサンクトペテルブルクで活動中。関東(早稲田大学、東京芸術劇場)、関西(天理大学)で2004年に来日記念講演を行った。 ・・・・フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より となると・・・帰りの飛行機は、トルストイ号なのでしょうか? そんな、楽しみを持ちながらの快適な飛行でありました。何げにランキングに参加してるらしい?良かったらポチよろしく→ありがとう