心地良い微睡みの中で。
先程、シーチキンおむすびさんのブログへ足を運んだ。そこには私に対するメッセージを載せていて下さり、「忘れられていなくて良かった!」と安堵の念を覚えた。ずっと楽天から離れていらっしゃったのでどうなさったのであろうと心配していたが、変わらない優しさを称えたシーチキンおむすびさんがそこにはいらっしゃって、本当に安心した。新しいHPにも是非足を運ばせて頂こうと想っている。シーチキンおむすびさん、本当にありがとうございます。今夜は一段と強い眠気に襲われていた。朝、眠るのが遅くなるのは、ドラマの再放送を観てしまうからであろう。『スイートホー○』と言う、山口○子主演の小学校お受験ドラマが放送されていて、とても懐かしいのである。リアルタイムで観ていた事もあり、小泉今○子の主題歌も唄える。そして眠るのが11時になってしまうのである。20時くらいから、母に「大丈夫?そろそろ起きる?」と声をかけられたが微睡みの中にいた。すると母はスキンシップを始めた。「熱があるんじゃないの?」と母の額と私の額を合わせたり、私の鼻をつまんだり、頬をぷにぷにしたりして微睡みの中にいる私はくすぐったさに笑いを浮かべたままされるがままになっていた。「肌がぴちぴちやねえ」と私の顔を弄びながら笑う母が居た。きっと母も寂しさを覚えていたのであろう。亡くなった彼女と仲が良かったのであるから。彼女がこの世に存在しないと言う事実は、夜になると突然胸を貫かれるように痛む。そんな時、“共に哀しみ、共に泣ける”相手がいると、こころの痛みは少しだけ和らぐ。夜中、私はDVDでドラマを1話分だけ観た後、カクテルを作る。シェイカーを振っている時は無心になれる。頭を空っぽにして唯、「美味しく出来上がりますように」とこころの中で呟きながらシャカシャカと振り続ける。出来上がりグラスに注ぐ時、達成感を覚える。朝になれば『食べなければならない』と言った苦しみを忘れられる。どうして私は『食べなければならない』のであろうか。食べている時私はこれまた無心である。味わっているのは最初の10分位でどんどん味覚も無くなっていく。只管胃に詰め込んでいるというような感じである。普通の味では物足りず、食卓塩を振りかけたり胡椒をかけたりして味を変える。でも全身が麻痺している感じで味覚も伴って鈍感になる。そして突然胃がパンパンになっている事に気付く。漸く嘔吐できる時が訪れるのである。全てが終わり、後片付けもきちんとしてやっと服薬の時間になる。その頃にはこころも落ち着いている。この『落ち着き』は、やらねばならない事を成し終えたという気持ちからくるものなのかも知れない。私にとってやはり『食事』という『過食』と『嘔吐』は必要不可欠のものなのであろう。摂食障害を発症した時から、ぽかりと口を開いているように深い穴が開いたこころに、食べ物を仮埋めする事で欺瞞に満ちた満足感を覚える。けれどもそれは異質なものであるから、排出する。そしてまた穴の開いた状態に戻る。だから毎日その繰り返しが続いていくのであろう。こころの穴に必要なものは、『愛』なのではないかと感じる。しかしそれは安っぽいものではなく、真摯で確かなものでないといけないのであろう。これはそこら辺に都合よく転がっているものではない。摂食障害を患っている人々が抱いている『寂しさ』『哀しさ』『苦しさ』『辛さ』『虚しさ』『心細さ』etc...といった想いを包括して、優しく抱き締めるような愛が必要なのであろう。今は、母との関係が上手く行っていてお互い支え合って生きている。しかし、時に“恐怖”を覚える時もある。「いつしかこの関係が崩れるのではないであろうか」「また子どもの頃のように叱咤されるのではないであろうか」「見放されてしまうのではないであろうか」「母は私に対して辟易の念を覚えるのではないであろうか」と言った想いが交錯する。そうなったら、今の私は生き辛くなる。毎日、申し訳ないという想いでいっぱいになり、また隅っこに追いやられ呼吸すらままならなくなってしまうと言う情景が思い浮かぶ。不安が消える事は決して無い。起床したのが21時半だった上に、ジャ○コまで行ったので、更新が遅くなってしまった。でも店の中で仲良く母と過ごせた事は私に安心感をもたらした。火曜日は、先週キャンセルしたカウンセリングを今週にして頂いた為、徹夜するつもりである。妹の親友の死という哀しみを何重ものヴェールで覆い、余り泣かないようにしているのであるが、カウンセラーの前ではそのままのこころが現れるであろう。沢山涙を流し、どういう想いでいるのかと言う事を少しずつ整理していき、彼女の死を受け容れたい。カウンセラーの前ではまるで子どものように素直に泣いてしまうであろう。そうしてゆっくりゆっくりと前を見ていけるようになりたい。