溢れるのは、過去の・・・。
母を想うと、どうしても過去の事を考える。あの、地獄のような離婚前の日々を。弟が生まれる前までは、何とか所謂“夫婦”の形を保っていたと現在の感覚でも、子どもの頃の感覚でも想う。しかし、弟が生まれてから母は変わった。先ず、どんどんと痩せ始めた。それまで、肥満体型で体重も60kgを超えていた。しかし、いつしか50kgをきり、40kg台になり、離婚前には30kg台にまでなっていたのである。現在は、40kg台半ばらしいけれど脚は私と変わらないくらい、心許ない細さである。母が、痩せ始めたのには訳があった。それに気付かされたのは私が大人になってからである。本当に遅すぎた。何故、母が痩せ始めたか。それは、“離婚に向けて必要なお金を貯めるため、 働くようになった”という事が1つに挙げられる。毎日、近所のスーパーでレジのお仕事をしていた。また、これも離婚後に知ったのであるが弟が生まれた頃に、父はお金の支出により厳しくなり母は、自分の下着さえ買えなくなっていた。勿論、私が算盤・ピアノ・塾に通う為のお金、妹もピアノを習い始めた為、それは嵩み必要経費なのに、それを父は責めた。食費を使い過ぎるとか、光熱費が多いとか。けれども、子どもの目から見ても母は決して贅沢などしていなかった。弟が生まれてからは新しい洋服やアクセサリーを買う事もなかった。父からの傍若無人で一方的な罵りを我慢して下着は、祖母から使い古しのものをもらっていたほどだ。それでも、仕事でストレスを抱えていたのか父は、母を毎日罵倒し、怒鳴り、責めた。そして或る日、母はパートを始めた。いつの日にか、ピアスホールを整形外科であけてピアスをつけ始めた。そして、痩せ始めて綺麗になってきた。また、私達子どもに隠れてベランダで煙草を吸うようになった。私はその頃、11歳ででも、子どもながらに何かが変わり始めていると敏感になっていた。母が変わり始める前に、その母自身が手首を切って泣いていたのだから。幼くも、そろそろ大人の事情が分かり始める私の頭はすっかり混乱していた。母は、離婚を決意した事によって変わっていった。でも、その結婚生活という地獄から救ってくれている第三者の存在が居る事に、私も薄々気付いていた。大人の、どろどろとした関係など、もうどうでも良かった。私もまた、父が毎日大声を上げて詰まらない事で母を罵倒し、苦しめる事を許せなかったからである。こんな毎日が続くくらいなら、「早く離婚して、楽になってほしい」と、母に対して想っていた。どんどん痩せゆく母を見て。母が痩せた理由の2つ目に、父や父の親戚連中からの嫌がらせ、それによるストレスがあった事も決して忘れてはならない。だから、中々許せないのであろう・・・。その頃の私は、そういう両親を目の当たりにしてまた、妹と弟の面倒をみなければならない事で、自分でも気付かないほどストレスが溜まっていた。そして病院で、“ストレス性胃炎”と診断された。毎日、授業中に保健室に駆け込んだり、あまりの腹痛に早退したりしていた。けれども、腹痛だけでは病院へ連れて行ってもらえず、この診断が下されるまでは「仮病だ」「怠けるな」とばかり周りの大人に言われた。私が小学6年生のあの頃。全ての歯車が狂っていた。否、狂い始める序章だったのかもしれない。今、こうして病気に苦しむ事になる、その大きな切っ掛けが、あの頃だったのだろう。あの頃の私にとって、唯一の救いが観月ありさちゃんだった。バラエティ番組やドラマで活躍する彼女を観て、私も何とか頑張れていた。頑張って、頑張って、姉としてまた、母を助ける人間として必死になった。やがて、糸は切れてしまい病気になりダウンした。という事を、ふと想い出した。何が切っ掛けだったのかは不明だけど、こういう事もあったのだと忘れないために書き記しておこうと想った。その間、ずっと不幸だった訳ではないのは確かである。ありさちゃんのコンサートには3回行ったし、去年は舞台も観た。母の苦しみは、私の苦しみでもある。それだけは忘れないで生きていきたい。