5人殺害の被告人に死刑回避判決だそうです。
岐阜、中津川で5人を殺害した被告人に、無期懲役の判決が言い渡されたとのこと。まずは、亡くなられた5名のご冥福をお祈りいたします。死刑回避判決、ということで、割と批判の対象になっているようです。現在報道で死刑回避の理由として示されているものも弱いのではないか、という指摘は、私には正直なところうなづけるものがあります。心神耗弱と認定すれば死刑は不可能ですから、その路線が最もありそうな路線でした(現に、心神耗弱の鑑定も出ているとのこと)が、心神耗弱の路線をはねつけた上で、無期懲役判決は、無論心神耗弱ほどではないにしても判断能力が減退しているのが量刑上有利に斟酌されるにしても(同旨としてこちら)、一瞬えっとなるのもごもっともです。 光市母子殺害事件(最判平18・6・20)で、殺害人数2名で犯行時18歳1か月、決して生育状態がよくないという事件についても、それだけでは、死刑を回避すべき情状としては不十分であると判断されていることを考えると、同種事件との均衡などとも考え合わせるとどうなのか、という疑問は実にもっともです。 私自身も、正直疑問です。 ただ、その疑問を越えて、死刑判決が相当であると断言する某有名検察畑学者や裁判官に対してほとんど罵声にも近いことを書いている人がいるのは、どうも私にはすっきりしません。もっと言ってしまうと、そういう人たちとはあんまりお友達になりたいという感じがしません。 死刑求刑事件となれば、裁判員裁判ではないことを考えると裁判官も当然永山事件(再犯昭和58・7・8)や光市母子殺害事件を意識して、いやそれどころか多くの無期懲役と死刑が問題になった事件を集めてきて判断し、その上でどうかということを考えたはずです。高裁、場合によっては最高裁でその当否は判断され、破棄という可能性は考えられるにせよ、です。 その結論に対し、おそらく判決全文を読んでいないであろう人たちが、裁判官の判断に対して罵声を浴びせたり、「あいつは死ぬべきだ」と言うに等しい言葉を浴びせるというのは、私にとっては考えられないことです。 判決文の書き方が下手糞だ、と言う批判ならまだ分かるのですが。 まだ具体例を見てはいませんが、光市の時に本村氏の立場を押したてまくっていた人たちは、被害者が極刑を望んでいないという点に対し、どう反応するのかも気になります。 先日、カラオケに行ったとき。曲の幕間に映画などの広告が入ったのですが、「だれも守ってくれない」と言ったかと思いますが、その予告が入った後。 私は胸が一杯になってその日それ以上歌えませんでした。あの頃のことを思い出すと、苦しくなってきます。 まさかとは思いますが、あのような目には二度と遭わないで済むことを祈りたいものです。