やはりこれは残したいもの…
ちょっと前のある記事によると、以前中国人記者が二人の日本人学者 柄谷行人さんと四方田犬彦さんに「なぜ日本はハングルのように漢字を捨ててひらがなやカタカナに置き換えなかったのか?」と聞いたことがあったそうである。その答えは「一つの漢字を捨てることは、その字に込められた文化の珠玉を捨てることになる。韓国人はいま後悔しているよ」というものだったという。その正論ぶりと思考の深さにとても驚いたとその記事は書いていた。確かにそうである。日本人は漢字を捨てずに良かったと思える。アルファベットをはじめ、ひらがなやカタカナあるいはハングルもそうだと思うのですが、一文字一文字は音を表わす文字で意味そのものは無いといってよい。ところが漢字は、一文字一文字が表音文字であると同時に、意味をも持っている表意文字でもあるので、意思や意味が的確に伝わり味わい深いものを感じてならない。仮に日本語の書物がすべて、ひらがなとカタカナで書かれていることを想像してみるとどうだろう。意味は掴み難いし、同音異義がたくさんある日本語では間違って伝わることもたくさん発生するに違いない。話はすこしずれるが、私はむかし、まだワード・プロセッサなるものができる以前の頃、日本語のワープロはできることはないだろうと思っていた(タイプライターのイメージがこびりついていたからだと思う)。アルファベット26文字や何文字あるのかは存じませんがハングルなどは、すぐにでもできるだろうことは分かるが日本語は…? “ひらがな” があり “カタカナ” もあり “ローマ字” も使うし、何よりも “膨大な量の漢字” があるから、そのように複雑な言語文字のある国ですから、そのようにたくさんの文字盤なり文字データを抱え持つことができないだろう、との事です。ところがどっこい、私ができないだろうと思っていた矢先に、もう現実のものになっていた。もちろんわたしも何十年も前から、そのワープロの恩恵に、大いに浴してきたことは言うまでもないし、ワープロもパソコンも何台も買い替えることになって、それに触れない日は全くないと言っていい。表意文字である漢字が我が国で使われ続けているのは喜ぶべきことでありますが、ワープロやパソコンワードを使用することが主となってしまって、手書きで文字を書くことが少なくなってきているのは否めない。そのせいで漢字を読むことは問題ないのですけれど、漢字を書くとなると甚だ覚束ないことになっている。その忘れた漢字を調べるのに、パソコンワードで調べているのだから、もう “何をかいわんや” である。これは大いなる問題なのかもしれない。それでも漢字は無くさないでもらいたいものである。 いつ頃に報道されたものか定かではありませんが、こんな記事を見つけました。