日本初の 「第九」 が全曲演奏されたところ…
天気の良い日だった。そして、かなり辺境の地に目的のそれはあった。明石海峡大橋を渡り、大鳴門橋も渡って徳島県へ入り、「鳴門」から地元路線バスに乗り換えて30分位揺られて着いた所が「板東」という地。そこに「鳴門市ドイツ館」というものがある。大正の初めに第一次世界大戦に参戦した日本が、ドイツの租借地であった中国の青島(ちんたお)を攻撃し勝利した。そこで約5000人ほどのドイツ兵を捕虜として日本各地の収容所に送ったとのことで、このうち徳島、丸亀、松山にいた約1,000人が1917年から1920年までの3年間を、鳴門市の板東町に造った板東俘虜収容所で過ごすことになったのだと、パンフレットの説明にありました。板東俘虜収容所に関して特筆すべきは、この収容所は、“俘虜収容所” という言葉から受けるイメージとはおおよそかけ離れた実態のところであったとのこと。板東地元住民が総勢でも500人程度のところへ、その倍の1000名ものドイツ人捕虜が送り込まれてきたわけですから、当初の地元の不安たるや尋常ではなかったことでしょう。ところが、当時の収容所所長であった会津出身の松江大尉(だったかな?)という人の指導の下、すべての収容所管理者たちが、捕虜の人権を尊重し自主的な運営を許すという方針で、板東の地元民との交流も活発に行われたため、多くのドイツ文化が伝えられたということです。戦敗軍としての悲哀を味わった会津藩士の子として生まれた所長の体験が、このような人道的行動をなさしめたという事です。彼らドイツ人俘虜の所内活動はというと、話を聞くだけではとてもにわかには信じられないものばかりで、収容所内に商店街やレストラン、印刷所や図書館、音楽堂などの施設を造ったという。また、学習、講演、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も盛んであったという。中でもとりわけ音楽活動に関しては、手作りの楽器なども使った複数のオーケストラや様々な楽団ができて、その演奏活動も100回を超えたとも言われている。そんな演奏会の中の一つで、もっとも有名なものにベートーヴェンの「交響曲第九番」合唱付き全曲が、日本国内で初めての演奏されたということです。ただし、捕虜はすべて当然のことながら男性ばかりだったわけですから、女性の合唱パートもおそらく男性が歌っていたことになるのでしょう。ともあれこの話は映画にもなって(私は見ておりませんが…)有名になりましたが、今から100年近くも前の軍国時代に、このような心温まる事実があったなんて、ちょっと嬉しくなります。 因みにこのドイツ館は、このようなドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を顕彰するため、1972年に元俘虜たちから寄贈された資料を中心に建設さました。しかしながら、築後20年を経て施設の老朽化や収集資料の増加によって徐々に手狭になり、1993年に新ドイツ館の建設が計画され、同年10月13日に現在の地に新築移転されたということです。