三流記者が見たJAL123便墜落事件の不可解(02)
1985年8月12日は月曜日であった。東京地方はよく晴れていた(と記憶する)。いつもは毎週月曜日に簡単な会議があり取材費の仮払いをもらって取材がはじまるわけだが、盆休みに入ったためひさしぶりに帰宅して居間でゴロゴロしていた。テレビを見ていたのだろうか、はっきりしているのは数日前に広尾でインタビューした投資ジャーナル事件の関係者のファイルメモなどをなんらかのことから気にかけていたことか。九州・対馬に新幹線と航空機を乗り継いで10時間もかけて出張したその後くらいだったろうか。前年春に起きたグリコ森永事件の「かい人21面相」を追って関西出張を繰り返していたころだった。当時のメモを見ればもうすこしはっきりするが、結局仕事をしていたのか…。のんびりした休日の一日がおわろうとするとき、ニュースをみた。電話がかかってきた。いやこの順番は逆だったかも知れない。編集部全体が休みに入っていたはずだから、たんに編集者数人とのやりとりだったかも知れない。あつい夏の夕暮れだった。戸外はまだ明るかった。NHK総合テレビ夜七時のニュースは、乗客乗員524名を乗せた大阪行き日本航空のジャンボジェット機123便が羽田を発ってまもなく消息を絶った、というものだった。「日本列島は不沈空母」「日米は運命共同体」などと言った中曽根政権の時代だった。「行政改革(いわゆる行革)」「規制緩和」が叫ばれはじめ、官より民へといういまだによくわからない言葉がマスメディアにながれはじめたころである。その年の春には国鉄とともにいわゆる「三公社五現業」といわれた日本電信電話公社と日本専売公社のふたつの公社がそれぞれNTT(日本電信電話会社)、JT(日本たばこ産業会社)へと民営化された。このころに、ある暴力団関係者の親玉筋のチンピラよりはかなりうえの裏世界渡世人のひとりと一緒に大阪・キタの新地で酒を飲んでいたとき、いまの行革路線は米国の指令だそうだ、いちばん片付けたいのは国鉄なんだがいちばん最後にやるらしいぜ、郵政は無理だろう、中曽根があそこに手をつけたらオシマイだな、などといったヨタ話をきいている。オモテの稼業は設計事務所経営、裏稼業が天下御免な御ヤクザ様で永田町国会議事堂周辺に無数の子分を擁し中曽根とも太いパイプで繋がる男である。当時、自民党・中曽根政権は、さながらただいま現在の小泉政権にきわめて似ていて、米国共和党・レーガン大統領と蜜月関係であった。レーガン政権内部のある男を通じて具体的な「日本改造計画(プランB)」をみたことがあるぜなどとも云ったがその写しをわたしには見せてくれなかった。しかしながら元讀賣政治部に在籍したある政治評論家との雑談の中で、米国共和党政権とともにCIAが日本の右翼組織を通じてさまざまな工作をおこなってきたことなどはわたしもしばしば聞かされている。そのころに詳細な人脈相関図を作成した記憶があり、それがどこへいったか思い出そうとするのだが、ヤバイから止めたらと別の味噌が押しとどめる。うーんどうすべきか。ちょっと散歩してこよう。空を見ながら行く末をかんがえてみよう。三つの空があるが、見るのはもちろん20年前のアノ空、である。その空は青く光っていた。敗戦の時の空の色に似ていると、誰かが云う。なるほどプリズムをかざして硬い幾何学の迷路をジグザグに通過してふたたび外気の中へとびだした光が、こんどは一直線に目標物に衝突してみせるように、空は青く散乱していた。峠をゆっくりと登る。さかさまになった暗渠のような帯状の鉄橋をくぐり右手におおきく曲がって急峻な細い道をいっきに駈けのぼった。渓谷全体が見渡せた。正午のサイレンが鳴りひびく。60年前の空襲の日という村内放送がながれる。わたしはそこで空をもう一度見上げた。東京管制のそこは分岐点になっているはずであった。連山を背にまばたきした残像のように町がひろがる。この上空およそ7000メートルの空域でJAL123便は安全ピンの片側に出来た輪のようにおおきく右に旋回をくりかえし、1985年8月12日午後6時56分すぎ長野と群馬の県境の標高1500メートルの御巣鷹の尾根に激突したのだった。低空をよろめきながら飛ぶ銀色の機体を何人かの周辺住民が目撃している。しかし、その時点では墜落地点はまだわかっていなかった。その夜、テレビを見ていた同僚記者のひとりはがまんできず都内の自宅からクルマでどこか知れない墜落地点をめざして走りだしていた。わたしは深夜まで自宅でブラウン管からつぎつぎにながれてくる乗客乗員の安否情報、というよりも航空評論家などの混乱する話などをながめて過ごした。墜落地点がわかったのは翌13日未明になってだった。「群馬県上野村…」とテレビ画面にテロップがながれまもなくヘリコプターからの現場上空の映像が映し出された。暫くして編集部から、とにかく現地へ入るように、と電話が入った。こうして墜落から12時間たった8月13日午前、わたしたちは出発する。いつもつかうガソリン車のハイヤーは手配できなくて編集者のマイカー(カローラだったか?)でふたりして高崎目指して走りだしたのだった。この時点では、まさかクルマが一台ぶっこわれるほどの悪路を走りまわることになるなどとは、わたしも愛車を運転する相棒もかんがえていなかった ┌|∵|┘ つづく