「世界消滅五分前」
もう十分だった。墜ちてくる星々と夏の夕景と書割の神殿から漏れる嬌声と。「ただいま戻りました」と女が云った。言の葉の濡れそぼる夏の夜明けだった。いや未明の三日月の奔る海辺だったか。花崗岩のまだらな永遠を亀裂が幾筋も交錯して震え、励起して傾斜して昇りつめて点灯し、風を熾し火を鎮め幾重にも襲ってくるためらいを仰ぎ見る。「だいぶ揺れましたか」神殿の自動ドアがカタカタと上下左右に軋みきしみそれを押さえつけて局員が叫んだが言葉は虚空に飛び散って飛沫さえも玉と化しその一個一個が惑星のようにあたりの大気を旋回させて、また大地は収斂し黒く変色して糾合しいくつかの鉄路は捻じ曲げられて「あっスプーン曲げ!」と子供等が叫び、賢治の銀河鉄道が天の梯子を駆け浅草木馬館がどすんどすんと軋む。「落ちましたか?」と男が尋ね、窓口の官吏は目の玉を泳がせた。それは春の夕景の中であった。無限軌道を走る賢治の銀河鉄道と岩木山と原体剣舞連のdah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah/こんや異装のげん月のした/鶏の黒尾を頭巾にかざり/片刃の太刀をひらめかす/原体村の舞手たちよ/鴾いろのはるの樹液をアルペン農の辛酸に投げ/生しののめの草いろの火を/高原の風とひかりにさゝげ/菩提樹皮と縄とをまとふ/気圏の戦士わが朋たちよ/青らみわたる気をふかみ/楢と椈とのうれひをあつめ/蛇紋山地に篝をかかげ/ひのきの髪をうちゆすり/まるめろの匂のそらに/あたらしい星雲を燃せ/dah-dah-sko-dah-dah そのときー 即ち2011年3月11日午後2時46分。都内牛込郵便局本局前の自動ドアの前だった。若松孝二監督作品「キャタピラ」のDVDを知人に送るため大久保通りをわたりセブンイレブン前を通り過ぎた直後であった。バタンバタンと商店のドアが揺れて一瞬めまいがきたような感覚があった。しかしきづいたのは牛込本局前の石段を上がって局員が必死に抑える自動ドアをくぐった時、ようやくだった。…そうして「声」がひびいた。〈懺悔するな。祈るな。もう影を舐めるな。影を片づけよ。自分の影をたたみ、売れのこった影は、海苔のように 食んで消せ。〉(世界消滅五分前 辺見庸『生首』より)と。