5日目(後半)
5日目(後半の前半)登頂の晩の行程で、オイラの意識がまだ多少なりともハッキリしていたのはだいたい3時間目くらいまでであろうか。それ以降の記憶は、意識が混濁しており、断片的である。まさにゾンビのように、気力だけで身体が頂上までついて行った感じであった。3時間くらい経過した頃から、疲労に寒さによる体力の低下が加わり、明らかにグロッギー状態になってきた。それでもガイドに導かれるまま、身体だけはひたすら前には進むのである。それは、リングの上で連打を浴びフラフラになりながらも、ゴングの音を聞き本能的にセコンドを立ち上がりファイティング・ポーズを取るボクサーの状態に近い。3時間目以降でオイラがまず覚えているのは、急斜面の登攀の最中に強烈な便意を催し、後続の登山者が目と鼻の先を通り過ぎるのも構わず、道端の斜面に這いつくばうようにして軟便をひり出したことである。意識が混濁していてもう恥ずかしいだの思う気持ちさえ失せていたが、几帳面にウェットタオルまで使って尻を拭いてすっきりしたことと、ケツが寒かったことは覚えている。次の記憶は、急傾斜を登攀中に猛烈な横殴りの寒風を浴びて、耐え切れずそれまでガマンして着けていなかった防寒マスクを装着したことである。手がかじかんでいてマスクを真っ直ぐに被れなかったのだが、被り直そうという気力をすでに失っていた。すぐに呼気が口の周りのマスクの繊維に凍りつき、「これはマイナス10°はカタいな」と思ったのを覚えている。その次の記憶は、クリスティアンという名のフランス人男性の記憶である。グループから脱落したか、あるいは残りのグループメンバーがみな脱落し1人だけになったのか知らないが、路傍に立ち止まり途方に暮れている様子の男性に「ぜひ頂上まで一緒に行かせて欲しい」とたとたどしい英語で懇願され、「よし、一緒に頂上を目指そう!」と意気投合し、まるで桃太郎が鬼退治の道すがら子分を拾うかのようにして登攀の列に加えて歩き出したのであった。…考えて見ると、この時点(推定3時間半~4時間)になると、最初の1-2時間の頃はきれいな列を成していた登山者も、あちこちでリタイヤが続出し、列がかなり不規則で断続的になっていた(キリマンジャロの登頂成功率は50%弱で、脱落のほとんどは登頂日である)。通常は1グループに対してガイドが1人(人数によってはさらにアシスタントガイドが1人)つくので、同じグループの中に異なる地点で複数の脱落者が出た場合、ガイドは脱落者に同伴して下山するケースが多いから、クリスティアンのような“登山孤児”があちこちで発生していたわけである。次の断片的な記憶は、意識が混沌としていた割には、怒りの感情のために比較的ハッキリと覚えている。たぶん出発後4時間目くらいのことだったと思う。オイラはついに息が切れるか、寒さに耐えられなくなるかして、ジョセフとフィリップの2人がどんどん先に進んで行くのも構わず、たまたま目の前に出現した岩に仰向けにもたれ掛かり、自主的に休息をしていた。正直、「もう限界に近いな…」と感じていた。…すると、オイラに同伴していたアンドリューが拙い英語でオイラに訊いてきた。「どうする。これから先の傾斜はもっときつくなるぞ。もう諦めて下山したらどうだ。」彼の口ぶりには、(オイラの偏見かも知れないが、)いかにも「たかだか山のてっぺんに登るためにこんな苦労をするなんて、まったく馬鹿馬鹿しいよなあ」といった感じがにじみ出ていた。オイラはそれを耳にして思った。冗談じゃない!まだ(混濁してはいるが)意識もあるし、身体も動く。オイラはゼッタイ諦めない。アンドリューのこのセリフがキッカケで、オイラの心中に頂上への執念が蘇り、気を新たに頂上を目指すことにしたのは言うまでもない。もう1つアンドリューに関わることで記憶に残っているのは、これだけ歩いたのだからもういい加減5000m地点は超えているだろうと思い、アンドリューに「今はだいたい標高何M付近だ?」と尋ねたところ、彼が「まだ4600mくらいだ」と答えたのを聞いた途端気分が悪くなり、突然吐き気を催してゲロを噴出したことである。今思えば彼は「5600mくらい」と言ったつもりだったのだろうが、意識が混濁していて冷静に“言い間違い”かどうかの判断ができなかったオイラは、頭の中で単純に「頂上までまだあと1000数百mもある」と考えた途端、胃が収縮して液体が込み上げてきたのであった。(6日間の行程でオイラが嘔吐したのはこの1回きりであった)次の記憶は忘れもしない、急斜面の登攀を終えてほぼ平らな台地に到達したかと思った時、ジョセフからここが「ステラ・ポイント」であると告げられたときである。ステラ・ポイントというのは、キリマンジャロ頂上まであと高度で200m(標高5750m)、時間にしてあと1時間少々というところにある、急傾斜が終わり頂上まで比較的緩やかな傾斜に入る転換点である。いわば、42.195kmのフルマラソンでいえば40キロ地点に当たる「ここまで来ればもう完走(登頂)はほぼ確実」といったポイントなのであった。オイラはこの時点で泣き出してしまった。もしかしたら頂上のウフル・ピークに到達したときよりもこちらの方が嬉しかったかもしれない。クリスティアン、アンドリュー、ジョセフ、そして(気乗りのしない様子の)フィリップと抱き合って喜んだ。もう半分諦めかけていただけに、そこがすでに「40キロ地点」であると告げられた時の驚きと感激は強烈であった。ところで、オイラは自分が手放しで声を上げて泣いていることに少し驚いていた。オイラは高校2年生を最後に泣いたことがなく、知人に「あなたには人間らしい心というのがあるのですか!」などと抗議されたことがあるような情操に乏しい人間だからである。オイラは恥だの外聞だのをかなぐり捨て、自制心を失って子供のようにボロボロに涙を流し泣いている自分を意識しながら、「これは昔、心理学で習った“情動失禁”という状態だな」と思っていた(笑)。そういえば、こんなやりとりがあった。この時オイラが涙を流しているのを見ながら、ジョセフやアンドリューが「どうして嬉しいのに泣くのだ?」…といった解せない表情をしているのに気づいた。オイラは「タンザニアの人はうれしくて泣くことはないのか?」と聞いたら、ジョセフたちは「泣くのは悲しいときだけだ」と答えた。オイラはフランス人のクリスティアンに「フランス人はどうだ?」と聞いたら「フランス人もうれしくて泣くことはあるさ!」と言う。そこで同じ質問をドイツ人のフィリップにしたら、彼は「自分は(うれしくても)泣かない。自分はヴェロニカが下山したときに泣いた」とだけ答えた。一緒の登頂を夢見たフィアンセが傍らにいなければ喜びも半分以下だったのは無理もない。そこから先の1時間少々は、傾斜は緩やかになったものの風はそれまで以上に寒く、オイラは酸欠だけでなく寒さと戦わねばならなかった。とくに、夜明けが近づいて目の端に氷河とおぼしきものの一端が白々と浮かんでくる頃には全身が冷え切り、低体温症の状態になっていた。周囲が次第に明るくなり風景を堪能できるようになりつつあるのに、オイラは映画八甲田山の登場人物さながら、うつろな目を漠然と前方に向けてひたすら前進するのみであった。たぶん、ジョセフやフィリップもオイラのほんの少し前を歩いていたはずだし、ましてやアンドリューはオイラのすぐそばを歩いていたはずなのだが、ステラ・ポイント以降のオイラの記憶は、まるで頂上まで自分1人で歩いていたような感じになっている。そんなオイラの次の記憶は、半分夢のような記憶である。夜が半分明け、頂上付近の万年雪のために、周囲は暗闇から急速に白っぽい風景に変わりつつあった。見晴らしのよさそうな岩場で先客が休んでいるのを見たら、オイラの身体は自動的に歩みを止め、休息を選択していた。ああ、やっと一息つけると思ったら、ジョセフだがアンドリューだか分からないが、ホラ、日本人の友達がいるぞ、という意味のことを言った。何の冗談かと思ってその指差す方向を見たら、岩にもたれ掛かって休んでいるのは、いかにも日本人のオッサンっぽい、小柄なメガネの東洋人であった。オイラは狐につままれたような気持ちであった。それまでの5日間、日本人はおろか東洋人さえ見掛けたことがなかったからである。一瞬、自分が夢を見ているのかと思った。ためしにそのオッサンに日本語であいさつし、日本語が通じることを確認し、「日本はどちらから来られたんですか?」と無難な質問をした。そのオッサンは確かに「福岡です。」…と答えた。するとオッサンは「…マチャメ・ルートから来られたんですか?」と訊いてきた。そうです、とオイラは答え、「マラング・ルート(から来たん)ですか?」と聞くと、そうです、と答えた。オイラは、同行者たちがオイラの会話が終わるのを待っているらしいのを察し、「…いやあ、大変ですねえ。」という意味不明のひと言をオッサンに投げ掛けて先に進んだ。そこからウフル・ピークまでいったいどれくらいの時間を要したのか、まったく記憶にない。記憶にあるのは、万年雪が(生け花で使う)剣山の状態に解けているところに、ウフル・ピークに向かって1本の登山路が伸びているところを通ったとき、「...ああ、インターネット画像で見たとおりだ」と思ったことである。やがて左手に雄大な氷河がその全貌を現し、500mくらい前方にウフル・ピークらしい、人が多数集まっている場所が見えてきたとき、オイラは歩きながらまたしてもヒック、ヒックと泣き出していた。前を歩いていたジョセフに「あそこまで走って行きたい!」と半分冗談で言ったら、本気で「No, don’t!」と言って止められた(笑)。すでに登頂を果たしてウフル・ピークから引き返してきている人たち何人かとすれ違った。誰もが興奮して感極まっているように見えた。岩場を迂回してグルリと回ったとき、視界をさえぎるものが一切なくなり、ネコのひたい程度の広さのウルフ・ピークに到達した。ついにやった、と思った。よく覚えていないが、たぶんまたそこらじゅうの人と泣きながら抱き合ったものと思う。本当に素晴らしい光景だった。東西南北、どちらを見ても飽きない。はっきり言って、方向感覚を喪失していたので、どちらの方角に何があったかはかなり不確かであるが、東側は雲海で、地平線の彼方に今こそ朝日が昇らんとしている。北側には残雪を残したクレーター、その彼方に見えるのはMt. Meruか。西側には朝日を浴びてオレンジ色に染まりつつある莫大なの氷河。南側(来た方向)にはMt. Mwenzi。その抽象的な美しさはインターネット画像でも測り知ることができたが、実際にそこに行って見てみないと分からないのは、そのスケールである。氷河、クレーター、雲海、いずれもがすごいスケールで、このスペクタクルには単純に畏怖してしまう。オイラは酸欠の頭でとにかく感動し、またしても1人で感極まって”It’s so BEAUTIFUL!”と誰にともなく叫んで回っていた。誰もがポーズをとって記念写真を撮っている“Uhuru Peak 5895m”のサインの前で、オイラもジョセフと並んでフィリップに写真を撮ってもらう。ちょうど左側から昇ったばかりのオレンジ色の日が差している。顔は涙と鼻水でグシャグシャである。写真を撮られながら、自分がこんな顔をして写真に写るのもいい記念になると思った。