虚の世界 (根元様への認識)
本来ブログは毎日更新するのが原則だと思うのだけれど今の私は何かのテーマに遭遇しないと書こうという気にならないので、困ったものである。今日こそは更新されているだろうと訪問して下さる方のことを考えると申し訳ない気持ちで一杯です。ごめんね|一般的に言えば神が出てくる話となれば敬い信じれば救いを差し伸べてくれるとか反対に「たたり」などの人間に罰を与えてくるような存在となります。しかし元々はギリシャ神話、古事記などのように世界に伝わる神はあるとき生まれ、成長し、苦しんだり悲しんだりしながらまるでドラマのように活き活きと生きただけの存在でした。ところがある時代から突然「我を神として崇めよ」として人間の生き様に幸せや罰を与える「恐ろしい」存在として人間をコントロールしようとする神になってしまいました。現在日本中にある神社の神様も、世界中の神々もすべて宗教的な存在となっております。ところが私が関わってきた「かむなからの神」はちょっと違うのです。私を信じれば助けてあげるとは言ってくれません。それぞれの神が「自分がいる」ということを知って欲しい。どんな時代を生き、どんな事件に巻き込まれたのか。人間に神々の歴史を知って欲しい。ただただそんな気持ちでいるらしい、そんな印象でした。始めの何か「根元」から私まではつながっているはずです。それをつなげているのは「根元神霊時間」です。根元から私までの時間の間には、無限数という数の「存在」があるはずです。「かむなからの神」によれば始めに「意思発動」があった言います。つまり「考えた」と言うことです。ここで根元様は「意思存在」となったと考えられます。そも末端である私も「考える」という「意思存在」です。ということは、「根元神霊時間」の中は無限数といえるほどの「意思存在」で埋め尽くされているはずです。今を基準とすれば最初の何かの根元さまは「原始時代」です。根元神霊時間の経過とともに「意思存在」が生まれました。みんなその時代時代を支えた存在があるはずです。根元神霊時間を縦軸で考えてみましょう。富士山山頂を時間の「始め」とすると今の「意思存在」の世界は、富士山の裾野のようです。すると不思議なことに気が付きます。すべてのものの始まりである「根元様」は富士山頂です。しかし今現在でも根元である山頂は裾野がなければ存在できないことになります。つまり富士山全体、そのものが実体として存在しなくてはならないのです。「根元神霊時間」は今でも途切れること流れていなくてはならない。そして山頂から裾野までの全体をかたち作っているのは「意思存在」だ。この無数の「意思存在」を私は「神」と認識している次第です。