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カテゴリ:文化
大阪中之島美術館 国立国際美術館 共同企画 「すべて未知の世界へ――GUTAI文化と統合」展 国立国際美術館主任研究員 福元 崇志
いま「具体」を見ることの意義
自由という言葉の持つ響きは、いかにも耳に心地よい。自由に生きるとか、自由に作るとか、しがらみや束縛からの解放は、ふつう、それ自体でよいことだとみなされる。だがその反面、自由の実現には、それなりの苦悩や葛藤や軋轢を伴うことも、また事実だろう。「なんでも自由にやりなさい」などと言われて、困ったことのある人は、おそらく少ないはずだ。 1954年、兵庫県の芦屋で結成された具体美術協会(通称「具体」)は、徹底して自由であることを目指した。その集団名からして、「我々の精神が自由であるという証しを具体的に提示」するという目的に由来している。画家の吉原治良(1905‐72)を絶対的な中核となしたこの集団は、必ずしも奔放ではない。例えば指導を請う若い会員たちに、吉原はもっぱら、「ええ」か「あかん」かの一言のみで応じていたという。「誰の真似もするな。今までになかったものを作れ」という吉原の教えには詳しい内実がともなわず、何が同「あかん」のかは、会員各人で考え抜くほかはなかった。その意味で、具体による自由の追求は、不自由に遂行されたといえる。 戦前から活躍していた吉原をはじめ、具体的の会員たちは、少なくとも出発点において画家だった。だからこそ彼ら/彼女らはまず、絵画という、目の前にある慣習からの自由を目指す。絵画をめぐるさまざまな規範を疑い、自由な描きを探るその道程は、吉原の言葉を借りて、吉原の言葉を借りて「精神と物質との対立したままの握手」と定式化できるだろう。画家が絵具をうまく飼いならすという、絵画が絵画として成立するための一般的な図式。その図式が、たとえばマッチ棒やアスファルトやガラス片といった、絵具ならざる遺物を用い起ち、あるいは絵筆を捨て、あえて不器用に描いたりすることで壊される。 具体の展示する作品は、結果よりも過程に、つまり「どう作るか」に重点を置いていた。だからこそ鑑賞者は、それらの作品から何か特定の意味を受け取るのではなく、むしろ制作時における作家の思考や行為に思いをはせざるをえない。具体の美術がもたらすのは、受動的な意味理解ではなく、能動的な(追)体験であるはずだ。 絵画「らしさ」からの自由を追求した具体。彼ら/彼女らは必然的に、私たちの生きる現実との接点を模索するようになるだろう。絵画という形式にとどまるか否かは、実のところ大して重要ではない。問題は、いかにして作品の中に「生きた時間」(会員の村上三郎が1957年に述べた言葉)を導入し、作ることと生きることを重ね合わせるか、である。解散して50年の節目となる2022年、いま、具体の作品を見る意義は、この点にこそ求められる。自由に作ること/生きることの喜びと困難を、具体の作家たちはいまなお、ありありと提示してくれる。 (ふくもと・たかし)
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Last updated
March 22, 2024 05:20:40 AM
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