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July 7, 2024
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カテゴリ:文化

泉鏡花 生誕150

日本近代文学研究者  上田 正行

 

日本語の可能性、物語の復権に努めた先見性

今年は明治5年に生まれた泉鏡花(187年~1939)の生誕150年にあたり、その文学に新たに光が当てられようとしている。

今は鏡花もポピュラーになりマンガにまで登場するようになったが、私が学生であった昭和30年代後半頃は、もっぱら新派悲劇の代名詞のように言われていて、その義理人情の世界は古く、前近代の作家と見做され、卒論に取り上げる人も少なかった。しかし、これは全くの誤解で鏡花は全近代の作家ではなく、反近代の作家であることが時代と共に認識されるようになってきた。日本の高度成長期が終わりを告げた1970年代後半になり、「夜叉ケ池」や「春昼」が映画化され(「陽炎座」のタイトルで)、「天守物語」がこれに続いた。映像の力は強烈であった。鏡花の物語の世界が一気に開花し、そのやや、おどろおどろしい世界が人々の共感を広げ、近代が忘れかけたものを我々に突き付けたのである。

公害で汚染されて行く世界や文明の現状に対置された教科の世界は、文明のすぐ脇にあって、この文明にたえず異議を申し立てたのである。そこにある人間中心主義が異類や異界の住人によって罰せられるのが「夜叉ケ池」であろう。

人間以外に多くの生物、異類が生存する他界や異界の実存を鏡花は信じていた。これは近代の人間中心主義とは異なり、言わば、反人間中心主義と言っていい。それは近代に異議を申し立てる反近代主義の立場でもあった。

この立場はその小説作法にまで及んでいた。文章とその内容である。坪内逍遥の『小説真髄』以来、日本文学は言文一致とノヴェルを小説改良の目標に掲げてきた。全てが改良と進化を目標に近代化が進められてきた中で文学も例外ではなかった。しかし、樋口一葉や鏡花は必ずしもこの流れに与しなかった。ノヴェル以前の物語や、翻訳文体(平安時代の物語や江戸戯作に倣った文体)に固執した。逍遥が否定したロマンス(物語)の復権に努め、そのために言文一致に拠らない独自の文体を作り上げたのである。

近代が忘れよう、否定しようとした前近代に、日本語の可能性と物語の復権を懸けたのである。そして、その試みは思わぬ世界同時性と言う普遍性を備えていたのである。例えば、「高野聖」(明治33年)はヨーロッパの「森の女」(Waidweib)やローレライの系譜に繋がる普遍性を持ち、夫を殺す「化銀杏」(明治29年)はフランソワ・モーリヤックの「テレーズ・デスケール―」に繋がる怖さを秘めていた。共に、愛なき結婚の惨状を描いたもので、鏡花の先見性に驚く。古いと言われた鏡花は決して古くないのである。

その文体(日本語の豊穣さ)や物語の可能性が漸く人々に認識され、近代が置き忘れたのを人々に突き付けている。時代が漸く鏡花に追いつこうとしているのである。

生誕150年を機に鏡花文学に親しみ、その新しさに触れて頂きたい。そして、「泉」「鏡」「花」の三文字にその世界が暗示されていることを実感してほしい。

(うえだ・まさゆき)

 

 

 

【文化】公明新聞2023.5.3






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Last updated  July 7, 2024 05:57:06 AM
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