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何を信じるか?/日女御前御返事
「日女御前御返事」には、次のように認められています。
此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり。是れを九識心王真如の都とは申すなり。曼荼羅と云ふは天竺の名なり、此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり。
此の御本尊も只信心の二字にをさまれり、以信得入とは是なり。日蓮が弟子檀那等「正直捨方便・不受余経一偈」と無二に信ずる故によつて、此の御本尊の宝塔の中へ入るべきなり。
まず、少し脱線。
「九識心王真如の都」というのは、1970年代、80年代とわりと人気のある言葉で、ここから「九識論」というのも流行したことがありました。
しかし、「九識論」というのは、華厳宗や、インドの唯識学派が日本に流入してできた法相宗の考え方に、日本の民俗信仰が交じり合って出来たものです。 大聖人オリジナルなのもではありません。
「心王」は、いわゆる「小乗仏教」(今、「小乗仏教」という言葉は、実態にそぐわないいわれ無き差別用語とされるので、あまり使いたくないのですが)「倶舎論」などで中心概念として使われる言葉です。
「真如」は、中古天台宗で頻出することば。「真理」ぐらいの感じですね。
唯識にしても、倶舎論にしても、日本の天台宗などで、学生は必ず学ばなくてはならない学問だったので、それらで使われる「九識」「真如」という言葉は、僧侶や、天台宗の要素が必要だった貴族階級には、とても親しみがあった言葉です。
だから、ある意味「九識心王真如の都」というのは、大聖人当時のキラキラタームを並べた(しかも「都」つき)ものです。
それが、「へー、それがどうした。ごっついすごいのは、題目を唱える私たちの心の中にある御本尊なんや!」という訳ですよ。
「九識心王真如」というのは、前座、前座なわけです。
さて、「御本尊」は他に求めてはならない、南無妙法蓮華経と唱える私たちの胸の中にある。
この一節に、大聖人の「本尊観」が現れています。いわゆる礼拝の対象としての「御本尊」が私たちの心の中にあるわけないですよね。
なのに、大聖人は高らかに「私たちの心の中にある」と宣言されています。
つまり、物質的存在としての「御本尊」ではなく、まさに「その1」に述べたように、「十界互具」の法理こそが、「御本尊」なわけです。
十界互具の法理をしんじること。 つまり、自分の存在の崇高さ、また、他者の崇高さを信じること。
これが、「御本尊を信じる」なわけです。
では、御本尊は内にあるから、対境としてはいらないの? との疑問に答えての本尊論は、また、そのうち。
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Last updated
July 15, 2024 07:12:59 AM
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