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カテゴリ:文化
広島と近代文学 早稲田大学名誉教授 中島 国彦 子規、漱石、鷗外らの足跡 日本近代文学の歴史の上で忘れられない地方の都市がいくつかある。広島もそのうちの一つである。 広島市立図書館のホームページには、「広島ゆかりの文学者」として30名ほどの名前が記されているが、原爆文学の書き手たち、原民喜・峠三吉・大田洋子ら以外にも、幼児期を広島で送った中原中也もいたりして驚く。が、明治・大正期では、まず正岡子規のなが目を引く。 正岡子規が新聞「日本」の従軍記者として日清戦争の現場を訪れたのは有名だが、1895(明治23)年3月6日に広島に到着、21日にやっと従軍が許可され4月10日に宇品を出発するまで、ひと月近く広島を中心に過ごしたことは忘れられない。日清戦争の時から、広島の港である宇品は、戦争の現場にもっとも近い地名として記憶されるようになる。 子規は同じ年の5月、従軍の帰りの船中で喀血、須磨で療養した後、松山の中学に赴任していた夏目漱石を訪ね、しばらく同居する。その際、須磨から広島へ出て友人と交遊、宇品から船に乗り、松山の三津浜に上陸している。山陽本線が整備される前、広島は西日本の交通の重要な中継地でもあったのである。
人と人をつないだ街
この年の4月、松山に赴任する夏目漱石も、まず広島の停留所に降り立ち、宇品から三津浜まで船で渡っている。子規が従軍のために宇品を出発した前の日のことである。すれ違いだったわけだ。松山から熊本に移る時も、1896(明治29)年4月10日、「わかるゝや一鳥啼て雲に入る」の句を残して、高浜虚子と三津浜から乗船、その晩は一緒に宮島の宿に一泊して別れ、九州に向かった。最近、その宿が「岩惣」であることが確認された。 漱石は満韓の旅から帰る途中、1909(明治42)年10月14日、朝方汽車で下関を発ち、午後広島に途中下車して数時間の広島見物をし、市内で手広く西洋雑貨店を開いていた井原市次郎を訪ねた。若き日に一緒に房総旅行をした旧友である。富沢佐一『漱石と広島』(2019年)は、そうした事実を掘り起こしている。 宇品から八幡丸に乗り、第二軍の軍医部長として日露戦争に従事した森鷗外のことは、よく知られている。東京で心配している妻・志げに広島から出した手紙の短歌、「わが跡をふみもとめても来んという遠妻あるを誰とかは寝ん」もおもしろい。従軍記者となった小説家・田山花袋と広島で初めて会ったのも、文学史の一コマである。漱石と鷗外の名は、やはり落とせない。 漱石の後押しで小説家としてのデビューをはたしたのが、広島生まれの鈴木三重吉だ。若き日のデビュー作「千鳥」は、広島湾の能美島(江田島市)を舞台にし、「山彦」には広島の北方の山間にある安芸太田の風景が描かれている。いずれも三重吉自身の滞在体験をもとにするが、そこに展開する架空の物語は甘美で、広島の海と山の美しさを描き、忘れられない。人と人をつなぎ、広島の街は文学の中で息づいている。
なかじま・くにひこ 1946年、東京生まれ。早稲田大学大学院博士課程修了、博士(文学)。日本近代文学館理事長。著書に『近代文学に見る感受性』(筑摩書房)、『森鷗外 学芸の散歩者』(岩波新書)など多数。
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Last updated
July 23, 2024 04:32:36 AM
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