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カテゴリ:文化
変わりゆくバングラデシュ 森田 雅章 四半世紀の発展と暮らし撮る かつてはアジアの最貧国に数えられたバングラデシュだが、近年、目覚ましい経済成長を続けている。同国を四半世紀にわたって撮影してきた写真家・森田雅章氏は、先月、東京都内で写真館「変わりゆく『バングラデシュ』」を開催。同国の発展の様子やそこに暮らす人々の姿を紹介した。森田氏が写真とともにバングラデシュへの思いを語った。
ストレス、衝撃……そして羨望へ 誇りと愛国心あふれる青年も
最初にバングラデシュを訪れたのは1997年9月です。当時、首都ダッカでは、混合油で走るベビータクシー(小型三輪車)が吐き出す真っ黒な排煙がスモッグとなって視界をさえぎり、喉に強い刺激を感じました。さらに町なかをトラックやベビータクシー、リキシャ(力車)が、われ先にと走り回り、いたるところでクラクションが鳴り響いていました。すべてが私にはストレスでした。 衝撃的だったのは、高校生ぐらいの女の子が、道に落ちている牛ふんを素手で集めているのを目にしたことです。土の代わりに牛ふんを塗って家の壁にするといいます。 この国で写真を撮るには、自分を一度壊さなければ難しい。それほどの衝撃でした。しかし、その覚悟はまだなかったのか、「この国が変わらなければ僕はここに来ない。国が変化するには、最低10年はかかるだろうから、僕が来るとしたら、その10年を超えてから」といって、帰国したことを思いだします。 ◇ 10年以上が過ぎ、訪れた2008年。バングラデシュからスモッグは消えていました。車のCNG(圧縮天然ガス)化で真っ黒な排煙はなくなってしまいました。また、私がメインで撮影するスラムは半分程度に減り、テントのような住居は小屋に変わっていました。 19年までに計9回、訪れました。たちはその都度、様子を一変させていました。下水道が設置され、トイレも水洗に変わり、年のインフラも整備されました。以前はなかったインスタント食品が店に並ぶようになっていました。1997年当時は裸足が当たり前でしたが、今、サンダルを履かない人はいません。0年前は1日1食だった人たちも、現在は1日3食をとれているようでした。 かつては戸籍や出生の記録がないために年端もいかない女の子が結婚し、若年出産が問題化しましたが、子どもたちの通う学校が増え、子どもの登録や住民管理が進むなか、そうした問題も解決されつつあるようです。識字率は10%を割るとまでいわれましたが、今、18歳以下の子供でも字の読めない子はまずいません。 バングラデシュの成長の背景には、放精産業を中心とした経済成長があります。町の至る所に縫製工場が立ち、交代制で24時間操業します。それまで夜間の外出が禁止されていた女性を夜の街で見かけるようになったのもそのためでしょう。 そして、バングラデシュは今、建設ラッシュを迎えています。高層ビルの建設が進み、遊園地やショッピングモールも併設されました。そこにはジーンズ姿の女性や若い男女が買い物を楽しむ姿も見られ、隔世の感さえあります。 一方、「アウトカースト(不可触民)」と呼ばれる、汲み取り業など、現在も職業差別を受けながら暮らす人々がいます。しかし、そうした差別も国の発展・成長の中で薄まりつつあるのが現状です。出生によってつける仕事に制約のあったバングラデシュでしたが、人々の自由度は上がっています。 ◇ 「ここバングラデシュは最高の国だ」 今も貧しさの残る村で、20代の青年に「自分の国をどう思うか」と聞くと、彼はそう答えました。自らの国に誇りを持ち、愛国心にあふれる姿をうらやましく感じました。生活レベルが向上したとはいえ、日本からすれば、まだ不自由だし、不便なところも多いはずです。平均的なバングラデシュ人と日本人では、できることに依然大きな開きがあるでしょう。日本人の方がはるかにより良い未来を望める位置にいる。それなのに日本ではどこか諦めている人が多いのを感じます。バングラデシュを見続けてきた私はそう感じています。
もりた・まさあき 1958年、愛知県生まれ。日本写真家協会会員。日本写真家ユニオン会員。東京を中心に個展を開催。81年、視点展グランプリ受賞。2007年から5年連続で仏・公募展「サロン・ドトン『スモーキーマウンテンレポートin Philippines「あのときの子どもたちは」』がある。
【文化】公明新聞2023.6.20 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 16, 2024 06:11:29 AM
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