|
カテゴリ:文化
太田道灌とゆかりの地 歴史作家 河合 敦 荒川に山吹の里伝説 今も愛される名将 JR日暮里駅(東京・荒川区)前に、山吹の花を両手に持った娘の銅像がある。これは同地ゆかりの武将・太田道灌(一四三二~八六)の「山吹の里伝説」にちなんで制作されたもので、荒川区に寄贈されて二〇一八年に設置された(「山吹の花一枝像」)。 太田道灌がある日、鷹狩りをしていて急な雨にあい、立ち寄った民家の娘に「蓑を貸して欲しい」と頼んだ。ところが、その娘は何も言わず、山吹の一枝を差し出した。立腹して立ち去った同館だったが、のちに、山吹には「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに 無きぞ悲しき」と古歌があり、娘は「実の」と「蓑」をかけ、「家が貧しく、お貸しする〝蓑がない〟」と伝えようとしていたことを知る。無学を恥じた道灌は以後、歌道に励むようになったという。 これは江戸時代の『常山紀談』に載る逸話だが、かつては教科書に掲載されていたので、ご存じの方も多いだろう。この山吹の里が荒川区内(諸説あり)にあったので、「山吹の花一枝像」が置かれたというわけだ。なお、この像の数メートル先には馬に乗った道灌像があり、こちらの方が古い(一九八九年設置)。 太田道灌(資長)は、室町時代に扇谷上杉氏の家宰をつとめた武士である。当主を補佐して家臣をまとめるのが家宰職で、政務を代行することもあった。 室町時代、関東地方は幕府の出先機関「鎌倉府」が支配していた。鎌倉府のトップを鎌倉公方、それを補佐して政務を担う職を関東管領と呼んだ。ところが、同館の時代には、鎌倉公方は古河公方と堀越公方に分裂し、関東管領を継ぐ上杉下山内家と扇谷家が分立、互いに入り乱れて抗争を繰り返していた。 同館は築城術に秀で、河越城や岩付城(異説あり)を造り、築城した江戸城を拠点としたが、京都から高名な歌人である僧の万里集九など多数の知識人を招いて詩文を学び、詩歌会などをたびたび催した。まさに関東第一級の文化人だったわけだが、同時に名将でもあった。 文明八年(一四七六)、長尾景治が反乱を起こした。関東管領・上杉顕定の家宰だった父の死後、同じ家宰を継げなかったのを不満に思い、主君・顕定に対して挙兵したのだ。関東は騒乱状態になった。この時道灌は顕定を助けて溝呂木城、小沢城、練馬城など次々と景春方の城を落とし、本軍を敗走させ、景春の拠点・鉢形城を夜襲で奪取。四年近くかけて反乱を終息させたのである。 かくして道灌の声望は大いに上がり、急激に勢力が膨張した。これに恐れをなしたのが、道灌の主君の上杉定正であった。あるとき道灌を自分の糠谷館に招き、入浴中に暗殺させたのである。刺客の曽我兵庫助に斬り付けられたとき、「当家(扇谷家)滅亡!」と叫んだと伝えられる。五十五歳であった。なお、扇谷上杉氏はその後、道灌が造った河越城をめぐる争いで、当主の上杉朝定が討ち死にしたことで滅亡した。 そんな河越城があった川越市の市役所前にも道灌像がある。江戸城があった近くの東京国際フォーラムにも、江戸城を向いて道灌像が立っている。これ以外にも都内や首都圏には道灌の像や碑が多くあるので、興味があれば巡ってみるのもよいだろう。 (かわい・あつし)
【文化】公明新聞2023.9.20 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 28, 2024 05:25:05 AM
コメント(0) | コメントを書く
[文化] カテゴリの最新記事
|
|